大柴晏清君 投稿  「神話」

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大柴晏清君 投稿 「夢の通い路」

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大柴晏清君 投稿  「霧の町」

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Oxan君投稿 「和製英語」

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ごりせん君 投稿 「焼き物噺  1~3一挙公開

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大柴晏清君 投稿  「上の妹」

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Oxan君投稿 「打合覚書」

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大柴晏清君 投稿  「俳句考」

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大柴君 投稿 「いい日旅立ち

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Oxan君投稿 「散歩道)」

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Oxan君投稿 「組織論(チームワーク)」

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猛暑の中、少しは寒くなるような話題が提供できればと思って投稿します。
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大柴君 投稿 「よくって、知らないわ」「漱石とケーベル先生」

  掲示板で夏目漱石の話題に関連して数年前に執筆した漱石関連作品です。

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Oxan 君  投稿  「イエスとノー」

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大柴君 投稿 「高校三年生」「禿げ頭」

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Oxan 君  投稿  「吝(ケチ)は美徳」

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ごりせん君 投稿 甲州気まぐれ食い物噺・9・お麦(おばく)

甲州気まぐれ食い物噺・9・お麦(おばく)

擂鉢(すりばち)を両手でしっかりと押さえている。婆ちゃんが大きな擂り粉木で、炒りゴマを擂る。
辺りに香ばしいいりゴマの匂いが広がって行く。
そこに、軽くあぶった煮干を入れて、更に力を入れて粉状になるまで擂る。
「イツオ、味噌を取って入れな」
婆ちゃんは汗をぬぐいながらボクに命じた。
それからまたしばらく、ゴマと煮干と味噌を擂り合わせていった。頃合いを見て、冷(さ)ましたあとに出汁を入れて汁を伸ばしていく。
ゴマと煮干と味噌の交じり合った香りに生唾が出てくる。腹もグウとなる。婆ちゃんは冷汁をひと掬いして味を見て,ボクにも味見をさせてくれた。
この汁は田植えの時に供されるお昼の食事の『お麦』(おばく)にかけるのだ。子どものころの記憶であるから、その詳しい調理法などは分らないが、大麦(押し麦)を蒸かして食べたのではないだろうか。
押し麦は白米に混ぜて麦ご飯として今も食べるけれど、それだけとなるとパサパサしていて決して食べやすいものではない。
戦中戦後のことなので、大麦だけであっても、もしかしたら贅沢だったのかもしれない。
食べ方は蒸かした大麦に件(くだん)の汁をぶっ掛けて食べる。
冷汁には薬味として季節の香味野菜でネギ、紫蘇、ミョウガなどを添える。田植えの時期には貯蔵している米も少なくなるので、このような食べ物食べる習慣があったのだろう。
味の記憶としては、さっぱりしていて、何杯でも食べられた。

ネットで調べてみたら、『お麦』という食べ物が出ていた。神奈川の津久井あたりと山梨の上野原の食べ物として載っていた。長寿村として有名な棡原(ユズリハラ)にもあるそうだ。
けれど、この食べ物は大麦を粒のまま一晩水につけて、3時間ほど煮る。食べる時には味噌を付けるということだ。
いずれにしても米が採れない土地の食べ物だ。
上野原や棡原は甲州でも郡内地方で、私の育った峡南地方(私の所は旧中富町切石)では名前は同じでも調理法は違うようだ。
切石では今でも食べているだろうか・・・おそらく、それほど美味しいものではなかったので郷土食としては絶えてしまったかもしれない。
また、大麦が手に入らないのだ・・・米作の裏作として麦を作ることなどまれになってしまっている。
小麦ならともかく、大麦など、このところ見たこともない。
機会があったら、記憶を頼りに再現してみたいものだ。
『お麦』に近い食べ方として冷や飯を水で洗ってぬめりを取ってこの冷汁をかけて食べると美味しい・・・暑い夏に食欲が無い時などに何杯もいける。

今年の梅雨入りは早かったけれど、空梅雨模様。
お田植えの水は大丈夫だろうか。

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大柴君 「法事」  投稿

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大柴君 「乙女橋緑地」 投稿

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中村房江さん 投稿  同窓会

今年の正の木祭りは天気で三日間大ぜいの人で賑わった。稲積神社の例大祭で歴史も古い、植木市がはしりだという。私も孫の相手をして露天で焼きソバ・タコ焼・かき氷と定番の祭りを楽しんだ。そして金魚釣り、毎年買って庭の小さな池に入れる。何匹かは死ぬが一年たつとかなり大きくなり楽しんでいる。

5月19日は富士屋ホテルでの同窓会、133周年とか、ほとんど出席しているが20年近く前の当番幹事だった時のことを思い出して懐かしかった。テーブルを囲む同級生の顔を見るとお互い年をとったものだとつくづく感じた。鬼籍に入った人のことを思いつつ元気で会へ出席できることは倖わせということになるだろう。コットンクラブでの二次会もより多くの人が出席し、渡辺氏の好意で楽しかった。又、来年・皆様元気でお逢いしましょう。

 

  フルートを 聞きて帰れば 春の月

  五月晴れ 同窓会の 友も老い

  青桐の ジャングルのごと 庭を占め

大柴晏清君 小童話3点 投稿

  タンポポ  納豆君と豆腐さん  小さな森   です 

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大柴晏清君 投稿  鬼子母神

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奥山利雄君 投稿  ミスキャスト

ミスキャスト

 

ミスキャストを辞書で引くと「誤った配役」と書かれている。ミスキャストの「ミス」は誰の判断かと言う問題があるが、ここに記す事柄は、厭くまで私の個人的見解で「ミス」と判断したことであり、普遍的な「ミス」ではないことを予めお断りしておく。

200年も前の音楽には著作権などないから誰が演奏や編曲しようともいちゃもんをつけようがないので、多くの有名な曲がその対象になっている。

先ず、クラシックの名曲そのものをテーマ曲として使っている例として、ベートーベンの「田園」の出だしをカトリック教会がラジオ番組で使っているが違和感はない。しかし私の好きなパーヘルベルの「カノン」を何とか言う宗教団体が使っていたのには腹が立った。これぞミスキャストの好例。

次に歌の方であるが、私の記憶にある成功例、ミスキャストの反対語をコレクトキャスト(そんな言葉があるか?)と言うならば、50年も前に勇敢にもベートーベンの「エリーゼのために」を初めてアレンジして歌ったカテリーナ.ヴァレンテの[情熱の花]は正にそれだ。こんな有名な曲を自分なりにアレンジして歌いこなしたヴァレンテのオリジナリティーも賞賛されて良い。この歌は後にザピーナツが歌って大流行したので記憶している方も多いと思うが、彼女達は調子に乗って、「乙女の祈り」やチャイコフスキーの[悲壮]にまで手を伸ばしたのは間違いだった。「乙女の祈り」はまあまあ売れたが、「悲壮」の方はその題名通りになってしまった。

成功例の最たるものはプレスリーが歌った、Can’t help falling in love(日本名?)ではないだろうか。元の曲はフランスの作曲家ジャン.ポール.マルティーニの「愛の歓び」である。しかしプレスリーが、サイモンとガーファンクルの「明日にかける橋」を歌っているとは知らなかった。ミスキャストとは言えないが、やはりS&Gの方がずっと良い。

さて、ここから本題のミスキャストだが、「あんたにだけは歌ってほしくない。」と叫びたくなる曲がある。フランク.ミルズが作曲した「愛のオルゴール(Music box dancer)」という可愛らしいピアノ曲があるが、これを若島津の嫁さんになった高田みづえが歌った。私に取っては、嬉しいにつけ、悲しいにつけ口ずさみたくなる軽快な曲なのに、下らない歌詞を付けて歌いやがって、これぞミスキャスト。

イタリアのカンツオーネで「カタリ」などとともに有名な「ママ」という歌をご存じだろうか?これをこともあろうにペギー葉山が歌っているのだから腹が立つ。耶蘇教の娘たちが祈りを捧げたチャペルの歌だけで十分だったのに(クリスチャンの皆様、お許しあれ)。

ハリー.ベラフォンテのバナナボートを森山加代子が歌って日本ではヒットしたが、これも私から見るとミスキャスト。もっと声に深みのある歌手、例えば尾崎紀世彦の方が良かったような気がする。序に尾崎紀世彦だが、ジョーン.デンヴァーの曲を何曲かカバーしていたが(例えばCountry roadや“Sunshine on my shoulders”で始まる曲)これは頷けるし、コレクトキャストだ。

弘田美枝子が米国の3リー(ペギー、ブレンダ、あと一人は忘れた、記憶力の優れている方はお助けを)を真似て歌っていた。私は彼女のパンチ力のある歌い方が嫌いではなかったが、3リーの歌い方まで真似てしまって、失敗した。惜しい歌手だった。

一番のミスキャストは、日本の女性歌手の歌をカバーした徳永英明のアルバムだ。若いころ「壊れかけのラジオ」を歌っていた頃の彼はよかったが、6-7年前に出した高橋真理子やイルカなどが歌った曲を徳永が歌ったものは聞くに堪えない駄作である。彼の高音部の発声法は聞くに堪えないばかりか、厭らしささえ感ずる。

最近同じ曲を毛色の違った歌手たちが歌ってヒットしている。小田裕二の映画アマルフィーで有名になった「Time to say goodbye」と言う曲がある。映画の中ではサラ.ブライトマンが歌っている。以前「世紀のテナー」で書いたアンドレア.ボッチェリと彼女がデュエットしたものも売り出されているが好感が持てる。またスペイン、イタリア、アメリカの男性歌手4人で編成するイル.ディヴォ(Il Divo)と言うグループも歌っているがこれが素晴らしい。トヨタのアルファードのコマーシャルでも歌っているので心に留めておいて欲しい。

同期の女性で合唱に精を出している方からフォレスタという男女5名ずつの混声合唱団を勧められ何度か聞いた。彼らは日本の古い歌謡曲や小学唱歌などを歌っている。例えば三橋美智也が歌った「古城」をこのグループが歌っているがハーモニーの素晴らしさと真摯な歌声に音楽そのものに対する真面目さを感ずる。正にコレクトキャスト。

私の好きなポップスにアメリカのバックストリート.ボーイズと言う男性5人のグループがいるが、消耗の激しいアメリカの音楽業界で彼等が10年以上もトップの座を守っている理由は、歌う曲ごとにプロデューサーから作曲者まで代えて広いジャンルの曲を歌っているからである。その延長線上で考えると、上に例を挙げたミスキャストの歌手たちに罪がある訳ではなく、その音楽をプロデュースした人たちの見識が問題だったのだと思う。

小田和正のCDを近所の奥さんが「とっても素晴らしいから。」と言って貸してくれた。しかし、あのキンキン声を3曲聞いただけで頭が痛くなり、直ぐにお返し申した。セリン.ディオンも小田と同様に3曲が限界である。先日テレビの7チャンネルで昔のヒットメロディーを特集していて、現在の小坂明子が「もしも私が家を建てたなら」で始まる「あなた」と言う曲を歌っていたが、当時の声とは1オクターブも低い音程で歌っているのを聞いて、呆れるより怒りが込み上げてきた。彼女は自分で自分自身をミスキャストだと気付かないのだろうか?まったくー。

斯様に音楽好きは我儘であり偏見に富んでいる。

読者の好きな歌手をけなしたかも知れないが、変人のたわごととしてお許しあれ。

                                                                                                                                 完

ごりせん君 投稿 甲州気まぐれ食い物噺・8・カレー 

甲州気まぐれ食い物噺・8・カレー
4月初めに京都に行って、山紫会の会員の原夫妻に会った。
午前中、醍醐の桜を案内してもらい、お昼は嵐山まで足を伸ばし創作京料理の店でお食事となった。楽しく思いで深い、一日であった。
そのお昼の時に、子どものころの思い出話となり、昔の甲府の町が蘇ってきた。
我々の頭の中にある甲府の地図は昭和30年代のものである。
奥さん泰子さんは甲府の南にある湯田小学校の近くに住んでいたそうだ。
私の家のあった村松新道までは20分ぐらいの距離だったのだ。
小学生の頃に私の家の三軒先の鰻屋さんまで蒲焼を買いに来た記憶があると言っていた。
当時の子ども達は『お使い』に行かされたものだ・・・前回そばの話を書いた時、植原さんが藪蕎麦まで蕎麦を買いに来たと書いていたが・・・
私もよくお使いにやらされたものだ。
毎日のように桶屋町にある豆腐屋まで行かされた。小鍋を持って買いに行くのだ。
途中、同じクラスの女の子に家の前を通るので恥ずかしかった。
月に一度は、飯盒を持って平和通りにあったレストラン、通称『にくとき』までカレーを買いにやらされた。
トキワというレストランで肉屋も兼ねていたのだろう。
裏口のような所で、カレーのルーを飯盒一杯入れてもらったのだ。
家が産婦人科医院だったので母は看護婦のような仕事から入院患者の賄いまで全てやっていた。だから、『お袋の味』のようなもの作るヒマなどなかったのだ。
出来合いの惣菜がよく食卓にのぼったものだ。
けれど、このニクトキのカレーの時は嬉しかった。
そもそも戦争中に田舎で育った子どもがカレーなどと言うハイカラなものをたべたことはなかったのだ。このカレーには進駐軍の味がした。
今まで全く味わったことのない異文化の味だった。今思うに、ベースにバターがふんだんに使ってあったのではないかと思う。
母親は私がルーを買ってくると、それに野菜やブタコマなどを入れて量を増やして食卓に供した。
それでも、十分に美味しかった。

ずっと大人になってからもう一度あのニクトキのカレーを食べてみたいと思っているのだが、未だあの味にはめぐり逢っていない。
自分の舌の記憶を思い出して再現してみようと何度も試みたが未完成。
市販のカレールーには同じような味のものはない。インド系のカレーではもちろんない。
名店と呼ばれる洋食屋のカレーも食べ歩いてみたがどれも違う。
味が分るうちにもう一度食べてみたい幻のカレーである。
誰か、ニクトキのカレーを知らないだろうか・・・
ところで、『トキワ』と言うレストランいまもあるのだろうか。

中村房江さん 投稿  熟れた4月

熟れた4月  中村房江

 

ワーズ・ワースの詩に「熟れた4月」というのがある。内容は忘れたが4月は私の誕生日でなので、ノートにその詩を書きとめておいた記憶がある。

 3月のまだ冬をを思わせる寒さの日々と5月のまさに薫風の吹く日々との間で、なんとなく澱んだ生暖かい空気の4月・・・ワーズ・ワースはそれを見事に表現していた。

 もう少しで後期高齢者となる私、この呼び名は嫌なのだが世間の常識から見れば仕方がないと思う。自分の頭で判断し、自分の足で歩けるうちは、前向きな日々を過ごしたいと思っている。同級生に声をかけ、旅と食を楽しんでいきたい。

 

  花曇 初恋の人 病むを知り

  咲き誇る 桜の下の 孤独かな

  花の寺 集いし人の 笑顔かな

奥山利雄君 投稿 大関先生の思い出

大関先生の思い出

 

私は高校1年では島口先生(ちゃーちゃん)、2年、3年ともに根岸先生が担任でした。大関先生には、多分2年の時社会科を教えて頂いたように記憶していますが、余り確かではありません。担任でもない大関先生のことを何故、今頃書くのかと言えば、私の脳裏にくっきりと先生から教わった2つの事柄が記憶されていて、少し大袈裟に言えば、私の人生を左右するくらい重要だったからです。

私の息子真司(まさし)は高校卒業間近までクラシックギターのプロを目指してギターに狂っていたのが、文字通り寝食を忘れた猛練習の結果、手首の腱鞘炎を患いギターを諦めざるを得なくなってしまい、当然勉強はしていなかったため、大学には入らず音楽関係の専門学校を卒業しました。就職を目前に控えて、アルバイトで貯めた金と親からのカンパで1か月間アメリカ旅行をしました。その旅行中に何があったかは分かりませんが、帰ってきたとき「お父さん、俺は今から勉強をする。カナダの大学に入るから支援してください。」と言うので、今までになく真剣な表情で自分の決心を話す息子の言葉を信じ了承しました。

大学入学までに4年間カナダの予備校で英語の学力をつけ(カナダの大学は英語で受講する能力のない者は入学させない規則になっていたらしい。)、カナダのブリティッシュコロンビア大学(University of British Columbia)を29歳で卒業しました。卒業と同時に学生時代から集めた資料と自分の研究成果を基に「地政学(アメリカの戦略地図)」(五月書房)と言う本を著し、右翼の学者の仲間入りを果たしました。その後ロンドンのレディング大学(Reading University)で修士号に続き博士号(Doctor of Philosophy)を取得して、今年の4月からは青山学院の非常勤講師として国際政治学を講義しています。既に翻訳を含めて地政学関係の本を8冊出しておりますので、奥山真司と言う名前を覚えておいて、機会があったら目を通して見てください。

一応カナダの大学を卒業して、自分ではいっぱしの学者気取りで帰国をして、自分の研究成果を本に著すというので、どんな本を書くのかと聞いたら、英国の学者のマッキンダーが唱えた地政学の理論だというのです。私が記憶していた大関先生の社会科の知識にマッキンダーのハートランド理論と言うのがあったので、「もしかしたら、ハートランドを支配する者は世界島を支配し、世界島を支配する者は世界を支配する、というナチスドイツが応用しようとした理論じゃあないか?」と言ったら、息子は余りのショックで倒れるのではないかと思われるほど驚いておりました。

子供の親を見る目は自分の成長とともに変わるものだということは、私にも経験がありました。当然息子も私のことなど建設会社の大工くらいにしか思っていなかったのに、自分が勉強してきたことをそんな無知な親が知っていたことに驚いたに違いありません。

私が、他人の得意分野を侵犯することの罪深さを感じた一瞬でしたが、今でも息子の顔をつぶすように先回りをして悪かったと反省しています。しかし、大関先生が今から50年以上前に、戦後日本ではご法度になっていた地政学の理論を教えていたというのはただただ驚きでした。

大関先生から教わって私の脳裏に刻みこまれていたもう一つの事柄は、ドイツの社会学者テューニースの提唱した「社会には利益社会と友好社会(Gesellschaft und Gemeinschaft)がある」という社会学の理論です。

家族、学校など会社に入るまでに自分が住んでいた社会はゲマインシャフト(友好社会)であるのに対し、会社に入ってからの社会は、テューニースの言うところのゲゼルシャフト(利益社会)でした。私がテューニースの理論を正確に理解していたかどうかは分かりませんが、私流に考えたのは、社会で生きて行くためには、良かれ悪しかれ金で繋がった社会(ゲゼルシャフト)の中ででも生きて行かなくてはならないということでした。

今まで安楽にゲマインシャフトの中にどっぷり浸かって学生時代を過ごしていたのが、会社に入ってゲゼルシャフトに身を置いた途端に会社の人間たちは何と汚い人たちだろうと思い始めました。会社の先輩も同輩も私が思いついて話したちょっとしたアイディアを恰も自分が考えたかのように堂々と人前で話すのを聞いて驚きました。また苦労してあげた自分の成果を信頼していた先輩が自分のものとして横取りをしたのも見ました。しかし良く考えてみると、会社の人間はどのような手段を使おうとも自分を売り込み、人に認められ、出来るだけ高い社会的な地位を得たいがために手段を選ばないと食ってはいけないのです。その世界に自分が生きて行くためには、私にもそれなりの覚悟が必要だということです。会社に入ってまず自分に言い聞かせたことは「俺はゲゼルシャフトに生きているのだ」と言うことでした。勿論ゲゼルシャフトの中にも気心が合ったり、信頼できるゲマインシャフトもありますが、所詮そんな気ごころの合った人達でも、会社、つまりゲゼルシャフトを通しての繋がりでしかないと割り切ることで、煩わしい人間関係を割り切ろうとしました。会社に入るまでは観念的には理解していたもののゲゼルシャフトの何たるかを目の当たりに見て、大関先生のおっしゃっていたことの真実を知ることが出来たような気がしました。

会社を退職してまた元の居心地の良いゲマインシャフトに還ってきて、来し方を振り返ってみると、必死になって肩を怒らせて生きてきたゲゼルシャフトが、何だか滑稽に見えてきました。それと同時にもう一度あの世界に足を踏み入れるのは真っ平だという気持ちで

す。

東北訛り(茨木か福島地方ではないか?)で、少し皮肉っぽく教えていた大関先生を思い出して懐かしい気持ちです。

                                                                                                                                 完

 

大柴君 「消費者金融」 投稿

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奥山君からの投稿です。 世紀のテナー

世紀のテナー

 

私が汽車通学で一校に通っていたとき(昭和32年頃)、夕方学校帰りの甲府駅のプラットフォームでお金を拾った。金額は6千円だった。純真な私には、その当時ネコババ(漢字が「猫糞」とは知らなかった)などという考えはなかったので、一汽車遅らせて、そのお金を駅長事務室に届けた。拾得物なんとか言う書類を書かされ、何だか自分が悪いことをしたような気持ちにさせられたが、無事解放されて次の汽車で帰ることが出来た。

半年後に甲府駅長から呼び出しがあり、何かと思って出頭したら、「6か月前に拾得したお金の持ち主が現れなったので、国鉄が半額、拾得者が半額ずつに分ける規則になっているので貴方にこれを渡します。ここにハンコを、ハンコがなければ拇印を押して受け取ってください。」と言われて拾った金額の半分、3,000円を渡された。

当時、ラーメン(まだ「中華そば」、または「支那そば」と呼ばれていた)の値段が30-40円だったのに、現在は700-800円するから、3,000円を今の金額に換算すると、多分20倍の60,000円以上の金額に相当すると思う。ここでもまだ純真な私はその3,000円を自分のものとはせずに、母親に事情を話して全額渡したが、母親が驚き、そして喜んだ顔を見て、むざむざとその金を渡してしまったことに、むらむらと慙愧の念が沸き起こり(韻を踏んでいることに注目)、生まれて初めて母親とネゴシエーションをする気になった。

「バスケのシューズがぼろくなったので買いたいから2,000円俺にくれんけ?」とお願いしたら、相手方は既に人生で多くのネゴシエーションを経験している強者(つわもの)だけあって、1,500円に値切られてしまった。それでも私には望外の大金だったから喜んでネゴに応じた。

バスケのシューズは800円で買えた。残りの700円を八つ折に小さくたたんで(まだ100円札だった)、朝日町の永田楽器店に行った。

お目当ては、ラジオで聞き覚えたフェルチョ.タリアビーニが歌うプッチーニ作曲、歌劇トスカの中のアリア「星は光りぬ」の入っているレコードを買うためであった。我々の同級の永田君のお父さんが応対してくれ、店にあるレコードを探してくれたが、生憎タリアビーニのものはなく、フランコ.コレッリのものはあるというので、それを多分300円位で買ったと思う。残りの400円をどのように使ったかは記憶にない。

当時の日本も、そして我が家も貧しく、とても趣味に多くの金をかける余裕などない時代だった。ご多分に漏れず我が家のラジオは真空管ラジオだったし、戦前から使っていた手巻きの蓄音機で、レコードもSP盤だった。早速家に帰って家族みんなを集めてレコードをかけた。私の姉たちも音楽好きだったので概ね喜んでくれたが、こんな大金をどうしたのかと言う詮索は相当きつかった。しかし私の上前をはねた母親は、自分の後ろめたさも手伝って自分の取り分の中から幾ばくかの小遣いを姉たちに渡すことで詮索を回避してくれたように思う。

レコードのジャケットに印刷されているイタリア語の歌詞を見ながらコレッリ先生の歌い方を真似て歌い、いっぱしのテナー歌手になったような気がしたが、結構私は謙虚で自分がテノール歌手になれるなどとは考えなかったし、歌で飯が食えるとも思わなかったから、高校生にしては少々高級な趣味ではあったが聞いて喜ぶだけにした。

学生時代は叔父がくれたトランジスターラジオから流れるあらゆる音楽、クラシック、ジャズ、歌謡曲、邦楽から浪曲に至るまですべての音楽を聴いたが、イタリアオペラの花形歌手であるタリアビーニやマリオ.デル.モナコは特別な思いで聴いた。同時にプリマドンナとして、レナータ.ティバルディや後にギリシャの海運王オナシスの夫人になったアントン.カラスなどが歌うのを聞くと小さなトランジスターラジオの音が割れるのも構わず最大ボリュームにして聞いていた。

東京オリンピックの前の年に社会人となり、ある程度自分の趣味に金を使うことが出来るようになったので、安物のステレオを月賦で買ったが、半分も払い終わらないうちに買った電気屋がつぶれてしまって大もうけをした。

そうなると欲しいレコードをバンバン買うようになったが、趣味も広がりオペラばかりでなくアメリカのポップスなどにも手をひろげ、イーグルスのドン.ヘイリーが歌う「ホテルカリフォルニア」に惚れ込み本当にレコードが擦り切れるまで繰り返し聞いては一緒になって歌った。

結婚して、子供もでき、ステレオも何台か買い替え、聞く音楽のジャンルも増えた。海外の仕事が多くなりビートルズやアバに傾倒しだんだんクラシックから離れて行ったが、3大テナーと言われるプラシド.ドミンゴ、ルチアーノ.パバロッティ、ホセ.カレーラスが出てくるようになり、LPからCDの時代に入り音楽がもっと身近なものになったので、またクラシックも聞くようになった。

時代と共に、そして自分の歳とともに好きな曲がだんだん変わって来ている。今でも男らしいテナーは好きだが、昔のマリオ.デル.モナコのように声量いっぱいに歌い上げる厚切りのステーキのようなテナーより上品な懐石料理のようなテナーが好みに合ってきた。

もしこれをお読みの方でイタリアのテナーに興味のある方が居られたら、アンドレア.ボッチェリという盲目のテナー歌手の歌う歌をお勧めする。特にその中で「夢の香り」と言う曲は正に上品な馥郁たる香りの懐石料理であり味わい深い。

                                                                                                                                 完

オガハチ君 投稿  片倉もとこ さんを偲ぶ

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奥山利雄君 投稿 「甃〔いし(石)〕のうえ

甃〔いし(石)〕のうえ

 

毎年この季節になるとこの詩が思い出される。

「あはれ花びらながれ

おみなごに花びら流れ

おみなごしめやかに語らひ歩み」

で始まる三好達治の「甃〔いし〕のうえ」と言う詩である。

最近我が山紫会のHPは文学論がかまびすしいが、私の乏しい文学的感性と知識では殆ど「格好いい議論をしているな。」位にしか感じられず残念である。どうも私が文学や音楽に求めているのは作者の意図やその作品がどのような背景から生まれたかなどではなく、「格好よさ」ではないかと最近気が付いた。

先日、厚木の山奥でゴルフをしていたとき、鶯の鳴き声がしたので「千里鶯鳴いて緑紅に映ず」と言い始めたら、詩吟をやっている仲間が、驚いて私も詩吟をやるのかと聞かれた。「詩吟はやらないが、漢詩って格好いいじゃん。」と言うと軽蔑の表情を浮かべて、その後の句を言ってみろと言うので、「水村山郭酒旗の風、南朝四百八十寺、多少の楼台煙雨の内(漢字の間違いはご容赦を)」と詠じたら悔しそうだった。他人の得意分野を犯してはならないと反省した。

初めに戻って、

甃〔いし(石)〕のうえの詩は

「一人なるわが身の影を歩まする甃〔いし〕のうえ」

で終わるが、この終わり方がすこぶる格好良いのである。

この詩は中学か高校の教科書に載っていたように記憶しているが古いものはどんどん捨ててしまう私には確かめようがない。この詩の初めの部分は「動」または「人生そのもの」を表し、最後の部分は、「静」または「死」を表すという風に学校の先生は解説していたようだが、私にとっては、そんな解説はどうでもよいことである。この詩をはじめから声を出して読み通し、もう一度「一人なるわが身の影を歩まする甃〔いし(石)〕のうえ」とつぶやいて「うひゃー、格好いい。と言うのが常である。文学や詩を愛する人たちから見たら、私はまったくの異端児で下品な人種に属していること間違いなしである。「ふんなことを言ったって、俺に取っちゃあ格好いいんだから、仕方がねえじゃん。何か文句あっか?」

そんな異端児だって若い頃には女性にもてたくて文学青年を気取り、太宰治などを読んだ。しかし、元々文学的な感性が備わっていない者が付け焼刃で文学の知識を仕入れたからと言って女性にもてる訳もなく、「いいんだ。どうせ俺は妾の子よ。」と拗ねて止めてしまった。

そんな時、ふと思い出したことがある。太宰治が、何かの小説の中で「自意識過剰とは女生徒達の前を一人で歩くようなものだ。」と言うようなことを読んだような気がする。

本来なら、こういうことを確かめて「小説XXの中でYYに向かって言うセリフに」などと書くと信憑性が上がるのだが、この努力を放棄するのが私のずぼらな性格である。

多分、太宰治と三好達治は同年代の物書きだったと思うが「甃〔いし〕のうえ」の「おみなご」が「一人なる我が身」の太宰を自意識過剰にしたのではないか、と言う疑問がわいてきた。写真で見る、今流行の言葉でいえば、イケメンの太宰が若い女性たちの前を、チラチラと女性達の好奇な視線を浴びて花びらがひらひら舞っている中を歩いていく姿は、何となく恰好が良いと思わないだろうか?

はたして太宰と三好の間には文学的な接点があったのだろうか?

 

読者の皆さんにも三好達治の格好良さをわかって頂くために甃〔いし〕のうえを記す。声を出してお読みすることをお勧めする。読み終わったら少し行儀が悪くても良いから、または気取って「格好いい。」と言ってみて欲しい。

 

あはれ花びら流れ

をみなごに花びら流れ

をみなごしめやかに語らひ歩み

うららかの足音空に流れ(「足」の字は「恐」の字の「心」の部分を「足」に置き換えた字)

をりふしに瞳をあげて

翳りなきみ寺の春を過ぎゆくなり

み寺の甍はみどりにうるほひ

ひさしひさしに(「ひさし」と言う字は「まだれ」に「相」と書く)

風鐸のすがたしづかなれば

一人なる

わが身の影を歩まする甃〔いし〕のうえ

                                                                                                                             

大柴君の「手篭め」  掲載  矢崎君が読んだと言う

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加賀谷貞子さん 投稿  海行かば

「日めくり万葉集をもっと楽しむ」 小河原正巳君司会

海行かば                         加賀谷貞子
 元NHKプロデューサーの小河原正巳君が、退職後にBSの「日めくり万葉集」のプロディーサーを手がけていました。番組が終わった後、青山にあるNHK文化センター内のカルチャーセンターで「日めくり万葉集をもっと楽しむ」の講座が開らかれました。
 数人の女友達を誘い、月1回の講座に通うことにしました。70歳まで働いた仕事も終わり、自由な時間が増えたので、遊びだけではなく、少しは知的な学びの雰囲気に浸ろうという単純な思いでした。
 万葉集の色恋に迷うごとくの歌よりも、家族を思う防人の歌の方が好きの程度でしたから、指名しないでと小河原君にお願いしておきました。
 第一回のゲストは壇ふみさん(壇一雄の娘)講師は慶応大学講師の森陽香先生(若くて美しい方)司会は小河原君、受講生は20人(ごりせんのタカコさんも入る)に満たない贅沢な講座でした。壇さんは好きな3首の歌を紹介してくれました。彼女は女性も惚れ惚れするような美しさで、手の綺麗な方でした。1時間30分の講座はボーと見とれている間に終わってしまいました。
 それから、ゲストは太田治子さん(太宰治の娘)窪島誠一郎さん(水上勉の息子)歌手のクミコさん、漫画家の里中満智子さん、日本語学者の金田一秀穂さん等々でした。すっかり講座にはまってしまったけれど、特別に万葉集を勉強することもなく、月1回の講座に1年間(6回×2)休むことなく通えました。歌の解釈だけでなく
 万葉集は4516首もある。
 短歌だけでなく長歌もある。
 大伴家持の歌が一番多く479首ある。
 家持は仙台の多賀城で亡くなるまでの26年間歌を作らなかった
 歌の解釈も多数あり、今でも研究されている。
等も知りました。
 少し戻りますが、文化人類学者の片倉もとこさんがゲストの日でした。いつもより早く着いたので、配布された資料を読んでいると、最後の方にちょっと気になる万葉秀歌「巻十八・四〇九四(家持)」を見つけました。
 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目立と 負ひ持ちて 仕えし宮 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍
と、ここでぴたっと止まってしまいました。「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」のメロディーが浮びました。もしかして、海軍で戦死した兵の水葬の場面で流れた歌の元が これ!
大君の 辺こそ死なめ かへり身は せじと言立て ますらをの 清きその名を 古よ 今の現に流さへる 親の子どもそ 大伴と佐伯の氏は(抜粋)
と続きました
 片倉もとこさんの「イスラームの世界と万葉集」の話もとても面白かったけれど、万葉秀歌の話を聞きたくて、うずうずし時計ばかり見ていました。
 説明では、聖武天皇は東大寺の大仏の建立中に金が不足して工事を中止していましたが、大伴と阿部の一族が陸奥の国で金を掘り当て、聖武天皇に献上したことから工事を再開し、東大寺の大仏は完成しました。聖武天皇は大伴と阿部の氏にお礼の詔を下し、その中に「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」をいれたのです。もともと「海ゆかば・・・・」は大伴と阿部の家訓な中にあり、聖武天皇が家訓を引用したことに感激した大伴の家持が歌った長歌だったのでした。

 昭和12年、NHKからの委嘱により作曲家の信時潔さんが「海行かば・・・」 の部分に曲をつけ、戦意高揚の国民歌謡として放送されました。その後、太平洋戦争の出征兵士を送る歌として愛称されました。信時さんはこの曲によって、多くの若者達を戦場に駆り立てことになったことを後悔しているとも聞きました。
(小河原正巳作 温故知新 「いや重け 吉事~家持幻影」参照)
 私たちの年代は、戦後の新しい教育制度の最初の1年生です。少し年上の人たちはこの歌を歌えます。学校教育の中に組み込まれていたのでしょう。そんなことも考えると気持ちが昂ってしまいました。受け入れられない大きな波に翻弄されているような気分でした。
 そんな折に「ビルマの竪琴」の映画を見ました。日本に一緒に帰らなかった水島上等兵の手紙を上官が船の甲板で読むシーンがあり、手紙の中に「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」の文言が使われていました。放置された屍を僧になった水島が葬るシーンと歌が重なりまた、気持ちが乱れました。今でも、このことは心の中に納めきれず、言葉でまとめる事もできないでいます。
 6ヶ月間お休みでしたが、4月5日(金)~「日めくり万葉集をもっと楽しむ」の講座が始まります。ゲストもほとんど決まったようです。3回目は指揮者の大友直人さんです。森講師の的確な解釈も楽しみです。ましてや、小河原君が回を重ねるごとに円熟していく司会ぶりはもっと楽しみです。万葉集をもっと楽しむために通います。
 そして、もう一つ、帰りに女友だち達とちょっと一杯やって、他愛もないおしゃべりに興じるのも隠れた楽しみです。
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大柴君の「プールサイド」

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矢崎裕二君 投稿  大柴君の「プールサイド」を読んで

大柴晏清 著「プールサイド」を読む

 

電子書籍の書名は「プールサイド」だが、本を開いてみると小説の題は「手篭め」である。どうして書名が「プールサイド」なのかわからないが、ことによると庄野潤三の名作「プールサイド小景」から取った言葉かもしれない。そう言えばどちらも手堅い日常生活からはずれて、言わば脇から人の生き様を眺めている「アウトサイダー小説」の仲間同士という関わりがありそうである。

 さてこの「アウトサイダー」という言葉はイギリスのコリン・ウィルソンンが作り出した言葉で、何でもウィルソンが靴職人をしながらせっせと図書館に通い、膨大な読書を重ねた上に「アウトサイダー」なる一書をものして一躍有名になったということである。日本でも昭和30年代に同名の翻訳書が出版されて随分評判になった。自分も学生時代にこれを読んで少なからず心を動かされた憶えがある。この本は社会から疎外された、と言うより何らかの確固とした精神的基盤から疎外されてしまった現代人がその悩みと闘う悲劇的な姿に雄々しさを見出してそれを讃える、というテーマの下にいくつかの文学作品や芸術活動を取り上げて論じたものである。カミユの「シジフォスの神話」やカフカの「城」などが取り上げられていたと思う。

 考えてみれば明治以後の日本の作家たちも西欧近代と付き合うために馴染みのある文化的伝統から疎外されざるを得ず、踏ん張ろうとしてもヌルリと滑ってしまう泥田のような文化風土の中で、なんとか近代的自我を確立しようと悪戦苦闘してきたのである。漱石、鴎外、そして芥川などは真正面からこれに取り組んで各自それなりの成果を残し、今でも高く評価されている存在である。また藤村、花袋ら自然主義の人たちにしても、今から見ればいささか見当外れの感があるとは言え、当人自身は大真面目に自我の確立を目指して闘ったのであった。更に志賀、武者小路、有島ら白樺派の人たちも、ちょっとハイカラ趣味のきらいはあるが真剣さの点では決して人後に落ちない。これら戦前の作家たちは要するに自己の知性を頼みに近代的自我の問題の解決を図り、苦闘を重ねたと言えよう。

 ところが戦後の世代に移り、例えば第三の新人と呼ばれた安岡章太郎などになると、もはや知性による合理的な解決は本能的に信じることができなくなってきた。そして彼らは

知性による解決を放棄して、その代わりに自分固有の感性を自我の拠りどころに据える道を選んだと言ってよい。尤も晩年カトリックに入信した安岡にその後どのような境地が開けたのか、そこのところは、自分は晩年の彼の作品を読んでいないのでわからないのであるが。

 さて、長々とアウトサイダーについて駄弁を弄したが、ここで本題の大柴の小説に戻ろう。大柴にしても世間のはみ出し者という意味ではアウトサイダーに違いない。しかし大柴のアウトサイダー振りには戦前の鴎外、漱石、芥川はもちろんのこと、戦後の安岡などともまた異なったところがある。強いて彼が連なる系譜を探るとしたら、徳田秋声の名が思い浮かぶ。秋声の「あらくれ」という小説を自分は20代の終わり頃に読んだが、この小説で一体秋声は何を言いたいのかさっぱりわからない、と思ったものだ。ところが今回、大柴の「プールサイド」を読んでハタと納得した。実は秋声は何も言おうとしていないのだということを、である。

 大柴は知性にせよ感性にせよ、とにかく自己の認識能力を頼りに自我を捉えようとはしていない。言わば心眼で「あるがままに見る」というとろに身を置いている。解釈だの分析だのというしゃらくさいことは一切抜きで自分の生きる有様を見つめている。70代の大柴は無駄に歳を取ってはいない。70代にして初めて可能な彼独自の境地に達しているのである。

 この小説は、東京の場末の盛り場の隅にある寿司の店に住み込んで働いていた「オレ」が、その店の「御かみさん」とふとした行きがかりで内通してしまい、やむを得ずその店を去ることになる、という話である。そして「オレ」の内には歩いて四国八十八ヶ所巡礼の旅をしたい、という気持ちが起こる。末尾のくだりは「そうしてつくづく思う事は、明け方にオレに獅噛み付いてコトを要求した御かみさんの複雑怪奇である。(女はわからない!・・)そう思った。」で終る。何の大説も吐かない小人の些細な話、これぞ本流の小説である。

 久々に日本の本流小説に出会えた喜びを記したい。

 

小人の流れ流れて遍路かな         ヤーペン

奥山利雄君 投稿  手術  

手術

両親からの話を含めると生まれてからこの方、私は手術を全部で4回受けていることになる。第1回目は3歳の頃扁桃腺炎になり顎の下の左側を切ったそうで、今でも傷跡はあるが記憶にはない。

物心がついてからの手術は、マレーシアの現場にいるとき左耳の下が腫れて熱を持ったとき、現場のあったボルネオ島の片田舎のサラワク州ビンツルの医者では手に負えなくなり、ビンツルからプロペラ機で50分の州都クチンの病院に行った。偶然にもそこの病院に日大の医学部を卒業したという呉先生(Dr. Ng)が居り、その先生が直ぐに入院して手術をするように言うので、少し不安があったが彼に任せることにした。手術は全身麻酔をかけられていたので覚えていないが短時間で終わり、その後の経過も良かったので3日後には退院したが、2週間後に呼ばれて再訪したときにはその病状が意外と深刻だったことを知り驚かされた。呉先生が言うには、リンパ癌の疑いがあり、切除した部位をシンガポールの検査機関に送り調べてもらったそうだ。

中国人の呉先生は色の黒いいかつい顔をした先生で、眉間にしわを寄せて深刻そうに話をする人で、話す言葉は日本語と英語のちゃんぽんに時々中国語と思われるものが混じるアジアでは典型的なパスポ(パスポートのこと)、エアポ(エアポートのこと)イングリッシュで話してくれた。シンガポールの検査機関からの報告書を見ながら相変わらず眉間にしわを寄せて「シンガポールからの検査結果は。」と言って、私の顔を覗き込みながらもう一度深刻な顔をして、「問題ありませんでした。」と鬼瓦が笑ったような顔をして、祝福してくれた。これが私の記憶にある第1回目、実際は第2回目の手術で、56歳のときだった。

第3回目はやはり同じマレーシアのビンツルだった。左手中指の爪の直ぐ下が痛むのでジョイントベンチャーのケロッグ社のドクター.グレース(Dr. Morris Grais)に診てもらった。

この医者は気の良い私の釣友達で、彼は私をオクサンと、私は彼をモーリスと呼び合う仲だった。彼はもぐりが専門で何時も大きな鯛やグルーパという日本の「クエ」に似た魚を突いてきては私に料理をさせて、食べるときはお相伴をさせてもらっていた。私の釣がアナログなら、彼のもぐりはデジタルで、たいていの場合デジタルフィッシングの方に軍杯が上がっていた。

現場を渡り歩く医者だけあってやることが全て実質的で、私が、指が痛いというと、ビンツルの町のレントゲンのある病院まで連れて行き、その患部のX線写真を撮って「オクサン、指の先に針のようなものがあるけど、何か覚えはないか?」という。そういえば2週間前にモーリスが捕ってきた鯛を料理しているとき背びれの先端の針が指に刺さり直ぐ抜いたことを覚えている。そのことを話すと「じゃあ、その針の先端がまだ指の中に残っているはずだ。今から手術をしよう。」と言って、いきなり後ろの棚からかばんを取り出し、看護婦に命じて私を取り押さえにかかった。「おいおい、モーリス、今やる気じゃないだろう?」と聞くと、「オクサン、日本のやくざみたいに指の先がなくなってもいいのか?」と、またもや看護婦に命じて私の左腕を締め上げさせた。この看護婦は勿論現地人で、マレーシアでは令嬢の部類に属する綺麗な女の子だったが、このときばかりは、か細い腕の何処にこんな力が潜んでいたかと思うような力で私の腕を押さえつけている。モーリスは私の指先をアルコールで消毒し、そっと触っただけでも飛び上がるほど痛い左の中指の指先に麻酔もなしにキラキラ光るメスを突き刺し「オクサン、結構深くまで入っているよ。」と言いながら血がどくどく流れるのをその豪腕な令嬢に拭かせて、傷口をピンセットで広げながら掘り進めた。私はマレーシアの令嬢の前で悲鳴を上げないよう歯を食いしばって我慢しながら、それでも怖いもの見たさで見ていた。いくら友達とは言え、モーリスは自分の職業で妥協するような軟な医者ではなく、傷口を躊躇なくピンセットでかき回し、中指の骨の近くまで沈んでいた鯛の背びれの針を見つけ、ピンセットで引き抜き、血の付いた3mm位のその針を電灯にかざし、それを誇らしげ見せてくれた。勿論、「痛かっただろう良く頑張ったな。」とか、「痛くして悪かったな。」などと言う優しい言葉の一つもなかった。傷口を消毒し黒い釣り糸のようなもので曲がった針とピンセットを使って3針縫い手術は終わった、帰り際に「オクサン、ほれ、これが記念の品だよ。」と言って抜き出した針を紙に包んでくれた。

そのときの痛さは忘れられないが、これが医療の原点だということが認識できて、今でもモーリスの男らしさに感謝している。また、可愛らしいが力強い令嬢が私を押さえつけるときその硬い乳房を私の左肩に押し付けて抱きつくようにしていたことを不謹慎にも私は密かに楽しんでいたことを告白しなくてはならない。

この手術も上のクチンの病院の手術から3ヶ月くらい後だったように記憶している。

私の最後の4番目の手術は5年前の11月のとある木曜日だった。

当時、左の掌を固く握ると左手の薬指と小指の2本だけが手を開いても元に戻らず、曲がったままになっている。力を入れて強引に開くとカクッと音がして元通りになる。このことを医者に話したら、これは典型的な「ばね指」と言う症状で、指の腱を押さえている指の付け根の筋肉が締まりすぎるため、腱の伸縮が難しくなっているそうである。医者は簡単な手術で元通りになるから、今痛いようなら手術した方がよいと言うので、症状が少し重い左手の薬指を手術することに決め予定日を22日に定めた。

手術の規模としては薬指の下の掌を縦に1cmほど切開して締め付けている筋肉を開くだけのものであるからモーリスの手術と殆ど変わりない筈であるが、手術を決定するとき医者は承諾書を書けだの、手術に先立ってアレルギーの有無の調査や血液検査など面倒な手続きを要求してきてビンツルとの違いを見せ付けた。

手術の当日病院に行くと看護婦が「ではパンツ一つを除いて着ているもの全部脱ぎ、これに着替えてください。」と言って手術着を渡してくれた。「俺は別に腹を切ってくれと言っているんじゃないよ。何でパンツ一丁なんだ。」と思いながらも手術着に着替え、看護婦に導かれて手術室に入った。

手術台の上の仰向けに寝かされ血圧測定のため心臓の周りにセンサーを4個貼り付け、足の指にも何か取り付け、右手を動かないように固定し(マレーシアだったら令嬢の仕事を、無機質な皮のベルトが担当した)、左腕の肘から手の先端までヨードチンキみたいな液体で満遍なく消毒し、手術している所が見えないような衝立を目の前に置いた。手術の前に今消毒したばかりの左手の肘まですっぽり入る毛糸の袋を被せ、もう一度手術する指を確認した後、薬指の部分だけ、その袋を鋏で切り開き、今まで天井をむいていた左手を横に伸ばしたので左手が視界から消えて、そこからが手術の開始である。

医師2人看護婦3人の大手術だが、先ず薬指の根元に恐ろしく痛い麻酔注射をした後、ガサゴソやっていて10分後には手に包帯を巻かれて手術は終わっていた。この大袈裟な手術風景をモーリスに見せたら卒倒してしまうだろうと思った。

手術後2時間で麻酔が切れたときは痛かったが、医者が、術後直ぐに指をグーパーの要領で動かしていないと折角手術をしても指が固まって動かなくなるというので、痛いけど動かし続けた。手術から丁度1週間後の金曜日に抜糸をして、その後は自然に治るのを待つことになるが、ゴルフに手術の影響があるのかどうかわからない。しかし成績が悪かったら手術の所為にすれば良いから気持は楽だった。

発展途上国のビンツルの現場と、山梨とは言え文明社会の日本の医療機関の違いは余りに大きく、これでは日本の医療費が高くなるはずだと納得させられた。

モーリスならこの手術に麻酔を使っただろうか?

やはり手術は現場より日本の方が良かったのかな?

看護婦はマレーシアの令嬢の方が上だったが、優しさは日本の年増の姐さんだ。

痛みが取れた今だからこそ、こんな不謹慎な比較が出来るのかも知れない。

もしこの手術を長坂医師にお願いしたらどんな手術だっただろうかと考えただけでも興味津々だ。

最初の手術は父の勤務先の外国で行ったもので、現在まで4回の手術の3/4は外国だったことになる。多分大部分の人たちから比べたら手術の回数もまた深刻度もはるかに小さいと思う。今まで命にかかわるような大病もせず、ましてや長期入院を必要とする手術がなかったことを考えると、少々おつむは弱くても、私に健康な体を与えてくれた父母や祖先と家族に感謝している。

                                                                                                                                 完

ごりせん君 投稿  『甲州気まぐれ食い物噺・7』蕎麦

東京神田の「藪そば」が火事を出した。詳細についてはよくわからないが歴史的建造物であったそうである。 

いずれにしても一つの文化遺産が亡くなってしまったことは残念なことだ。 

神田の藪蕎麦には一度だけ行ったことがある。

敬愛する池波正太郎さんのエッセイに触発されてあの付近の店を食べ歩きしたのだ。

『散歩のときなにか食べたくなって』このタイトルで1976年~1977年にかけて『太陽』と言う雑誌で連載をしていた。

後に、平凡社、新潮文庫となった。ちょうど雑誌連載の頃、連れ合いと、わざわざ出かけていったのだ。

印象としては、『そばつゆが塩辛い』と言うことだった。

田舎者がジャブジャブつけて食べた結果かもしれない。

ところで、甲府にも藪蕎麦があった

。甲府の蕎麦屋の中では老舗でなかろうか。

柳町の通りが連雀と交わる角を左折して桜町の通りに出るまでの間にあった。

ここには鮨屋の治作があり藪の前には同じく蕎麦屋の『奥村』がある。

奥村は後発で私が甲府を出た昭和三十年代にはまだ無かった。

奥村は戦後間もなくの頃は柳町の温泉旅館で、同級生の油井君の実家だった。

今は旅館のほうはマンションとなっている。

甲府の藪が神田の藪と関係あるかどうかはわからないが、ここの『そばつゆ』も辛かったように思う。

我が家ではオヤジが『蕎麦っ食い』だったので、藪から出前を取っていた。

藪はそばの方にはあまりこだわりは無かったようで二・八ぐらいではなかろうか。

後発の『奥村』は店主(油井君の弟か?)が信州で修行したとかで、結構こだわりの蕎麦を出しているようだ。

オヤジがある時、『奥村の蕎麦を藪のつゆで食べると旨いだろうな』と言っていた。

先年、甲府に帰った時に通りを歩いたら藪蕎麦が店を閉じていたが・・・・

 

また一つ昔の甲府の灯が消えてしまったような気がした。

 

大柴晏清君から矢崎裕二君へ(ヤーペン)の手紙

矢崎君の了解を得て掲載しています(管理人)

矢崎祐二君(ヤーペン)ヘ

 

お嬢さんである、さくらさんのコンサートの件に及んで、君が山紫会のホーム

ページにメッセージを寄せていることを知った。可愛らしいお孫さんの写真も

掲載されている。ジージのデレデレ振りが想像出来るね。

 

さて他でもない、少々厚かましい気持ちと虫のいいお願いになるが、末木友和

君と二人に、アマゾンの電子書籍(キンドル、ダイレクト、パブリッシング)

で俺の作品を読んで欲しいのだ。(]l作品100円。50作品販売中)(但し、

アマゾンの端末機でないと読めない)(末木の住所を俺は知らないので)

本の宣伝販売のために重い腰を上げ、フェイスブック、ブログ、と立ち上げた。

いずれ、ホームページを開設したりツイッター、ミクシイにも手を伸ばさなく

てはならない。

 

今を遡る55年前、高校3年の夏休みだ。愛宕山の中腹にあったブドウ畑に俺

が篭もっていた時、(親戚のブドウ畑だった)二人が山中に訪ねてくれた以来、

友情を与えてもらった。粗野で粗忽の俺を、よく相手にしてくれたものと思う。

又、東京、大田区雪ケ谷時代には、3人で明け方まで掛かった本の背の汚れ落

としの作業は、紙やすりを使ったバカバカしい作業だったが、忘れられない記

億として残っている。二人には感謝の一言、ワイルドだぜ!

考えてみると俺の物書きの原点は、恩師である先輩作家中村星湖先生、唯一の

恩友の3年5組のクラスメイト久保島保君(久保島はるこさんのご主人)、更に

は、山梨日日新聞論説委員小林弘英氏、同じ3年5組クラス委員末木友和君

の四人へ向けて、褒められたいために、せっせと書き綴っているような気がし

てならない。正直、本音はそんなものだよ!

 つたな

であるからして、俺の拙い小説を、ぜひ、末木とヤーーペンの二人には読んで欲

しい、一方的で済まないが頼みます!。(返事は無用)

 2月某日

 大柴異清

大柴晏清君の手紙に対して矢崎君からの管理人宛のメール

 大柴君のお役に立てるならと了解を得て掲載しています(管理人)

先日は畏友、大柴ヤスキヨ君(ヤスの字が凝っているためパソコンで出てきません)のヤーペン宛の手紙をお送り下さり、有難うございました。 大柴君は一高時代から密かに尊敬し続けている友人です。山紫会のHPに載っている、彼の作品も愛読しています。障害の子供とおばあちゃんが津波に呑まれてしまう童話、なんか感動しました。最近、ヒロセ先生が出てくる「最後の授業」も懐かしい気持ちで読みました。

 彼の文章には本格的に文章修行を積んだ、黒光りのする職人技のような味わいがありますね。また彼の人柄も今や骨董品とも言うべき昔懐かしの文士気質を保持し続けた貴重な存在だと思います。

 そんな彼にオレの電子書籍の作品を読んでくれと言われるのはまことに嬉しく、早速読もうと思いましたが「電子書籍」というものはどうやって読んだらいいのかわからず、手紙に書いてあった大柴君の電話番号に電話をしました。そうして多分40年振りにあのちょっと鼻にかかった懐かしい声を聞きました。いろいろ思い出話をしましたが、肝腎の電子書籍の読み方については「オレも知らない」ということで、目的は果たせず

終わりました。今、ネットであれこれ調べていて、どうやら手持ちのiphoneで一つアプリケーションをダウンロードすればすぐ読めそうだということまでわかりました。

 さて大柴君はなるべく多くの人たちに読んでもらいたい様子ですから、このヤーペン宛の手紙は山紫会のHPのどこか然るべきところに載せていただくことに私としては全く異存はありません。すべて名管理人の田中さんにお任せいたします。

 ところで山紫会のHP、最近ますます充実してきて楽しいですね。ごりせん君・奥山君、植原君、memaさんほか多士済済、いずれも人生を有意義に楽しむ趣味と才能をお持ちでうらやましいです。さすが我等の山紫会、レベルが高いです。これらの才能を引き出した管理人さんの腕もお見事ですよ。

 

奥山利雄君投稿  我が生涯のパートナー

我が生涯のパートナー(愛猫チーコ)

 

通常のペット愛好家には犬派と猫派がいるそうだが、私は断然猫派である。代々我が家には猫がいたが、どれも気立てが良く、私になついていた。40数年前に結婚してからは4代、30数年間犬を飼い、犬の良さも、愛情深さも良くわかっていながら、幼少のころから飼っていた猫に対する憧れは犬を飼っている間でも続いていた。

数年前から独居老人となり、猫を飼いたいと思うようになったが、猫は14-5年生きるので、我が先祖の平均寿命を考えるとどうしても猫を飼う気力がわいてこなかった。

私の長女は私に輪をかけた猫好きで今、「安田君」と言う名前の真っ黒な猫を飼っている。その娘に「お前は良いな。可愛い猫がいて。」と言ったら、「父上も買えばいいじゃん。」と言う。猫好きは婚期が遅れると言われているが、ご他聞に漏れず彼女もアラフォーの独身である。

彼女は中学生の頃から私のことを「父上。」と呼んでいる。何時か電車の中でばったり会ったとき「父上。」と呼びとめられて、恥ずかしい思いをしたが、隣の席に座っていた人が気味悪がって席を譲ってくれたので、少しは役に立っているのかも知れない。

娘に、人間の寿命、特に奥山家の家系的な寿命の話をしたら、「父上、心配しなくてもいいよ。父上が猫より早く亡くなったら、私がその猫の面倒を見てやるから心配しないで。」と請け合ってくれた。しかし、猫が私より早く亡くなったら、私の面倒を見てくれるとは言わなかった。

その言葉に勇気づけられて、昨年の3月に猫を飼う一大決心をした。

猫の入手先について様々な情報を得て、努力をしたが、結局はバスケの後輩が「山日新聞の情報欄に猫を差し上げますと言う伝言が載っているから、電話をかけて見ろし。」と言うので早速電話したら、「取にいらっしゃい。」と言う返事を頂き、甲府の言われた住所に缶ビール1ダースと、猫の餌1袋を持参して貰いに行ったのは、決心してから3か月もたった6月の初めであった。

玄関を入ったら、真っ白な可愛い子猫がぞろぞろ出て来た。私は選り取り見取りで、どれでも良いのかと思っていたら、そこのおばさんが言うには、5匹の内4匹は既に嫁入り先が決まっていて、残っているのはこの子だけです、と言って差し出したのが、所謂キジトラ模様の一番小さな雌の子猫だった。おばさんの話にちょっと推測を加えると、その家で飼っていた猫の子供達は由緒正しい本妻の子達で、私にくれようとした子は妾の連れ子ではないかと思われる。我が方に選択肢は無いと言うことを理解し、この猫じゃ嫌だという理由もなかったので、お土産を渡して、その子猫を連れて帰ってきた。尻尾の長い可愛い子猫で、私はその子に奥山家に代々伝わる「チーコ」と言う名前を付けた。

そのおばさんの娘さんが後でメールをくれて、その子は納屋で産まれ、他の子達より発育が遅れていたが、(本妻の乳を飲むことは、妾の連れ子には当然難しい筈だ。) 私に貰われて良かったと言っていた。キリストも聖徳太子も厩で生まれたそうだが、チーコは納屋で生まれたのだから、何かきっと偉大なことをするかも知れないと期待しているが、今のところ私に小判を届けてくれるような兆候は見られない。

私は仲間内でGMと呼んでいる、ゴルフとマアジャンを泊りがけで行う集まりに良く参加する。そんなときはチーコの世話を近所の医者の娘さんと中華料理屋の娘さんにお願いするが、医者と中華料理屋の両夫婦は、ワインを1本と子供たちにちょっとしたお菓子を渡しておくと、子供達はそっちのけで、我が家に夜中に集まってチーコを肴に一杯やって盛り上がっているそうである。医者などは私の顔を見ると「奥山さん、今度のGMは何時ですか?」と催促してくる。

チーコは人見知りをしない、気立ての良い子で、暇さえあれば私にまとわりついて甘える。抱っこされるのが大好きで、今もパソコンに向かっている間中、私の膝に上で居眠りをしている。膝の角度が前傾していて前に落ちてしまいそうになるから、左手で抱くようにして支えているのだが、左手が疲れるのと両手を使う必要があるときはウィンドブレーカーの中に包み込むようにして、丁度私が妊産婦のような恰好でパソコンに向かう。チーコは十分眠ると、私の胸をよじ登りVネックの所から顔を出すので、彼女の顔を私の頬に着け、耳元で「チーコはパパのことを愛してる?」と聞いて、少しきつく抱くと、肺の中から空気を絞り出すようなか細い声で「うーん。」と言う。もっと愛を確かめたくて、もっときつく抱きしめると、ゲップに近い声を出して「ウフッン」と言うが、私の顔に前足を突っ張って、あらぬ方を見ている。あまりしつこくすると嫌われるので、解放してやると、逃げると思いきやまた膝の上に乗ってきて、腕を突っ張ったことや、あらぬ方を眺めたことを反省している風である。

チーコの正確な誕生日は、元の飼い主に聞いたら「4月の終わり頃。」だそうだ。長男の娘の誕生日が721日だったから、チーコのそれは孫の誕生日の3か月前の421日にしようと決めた。家の外に出すと蚤やダニを貰ってくるし、変な雄に絡まれる恐れがあるので、家の中だけで飼い、早いうちに避妊手術を受けさせようと塩山の医者に相談した。避妊手術は6-12か月の間に行うのが理想的だというので、丁度6か月の1021日に病院に行って相談したら、「まだ発育途上だからもう2-3か月待ちましょう。」と言われ、先月再度診てもらったら、体重も増えたし、発育も良いから226日に手術をしましょう、と言うことになった。

チーコは納屋で生まれたし、226事件の記念日に手術をするし、何か非凡な猫ではないかと感じているが、別に小判を持って来たり、千円札の顔にならなくても良いから、平凡な可愛いパートナーであり、死が二人を分かつまで一緒にいられれば良いと思っている。

                                                                                                                                 完

 

追記

ここで終わろうと思っていた一昨日の212日、突然チーコの鳴き声が変わり、落ち着きがなくなった。多分これが発情期なのだろうと思う。

昔、国語の教科書に萩原朔太郎の「月に吠える」という詩が載っていて、犬だったか猫が「のーあーる、とーあーる、あわわー」と鳴いているという表現があったように記憶しているが、今のチーコの鳴き声は、これに似て切実で物悲しい。これも昔の歌の歌詞だが「恋に目覚め、嵐に泣く、命を懸けた情熱の嵐。」と言う歌があったが、今のチーコの心と体の中には、正に情熱の嵐が吹き荒れているのかも知れない。

本来、猫が持っている種族保存のための生殖能力と子育ての楽しさの芽を、人間のエゴから摘み取ってしまうことに罪悪感を感ずるとともに、チーコが不憫である。

中村房江さん 投稿 如月

如月   中村房江 

1月が終わり早くも如月半ば世界各地で起こったニュースが寸時にテレビ・新聞で報道され茶の間に居てもあわただしさを抱く日々である。如月といえば西行の「ねがわくば、花の下にて春死なんこの望月の如月のころ」という歌がうかぶ。1月の大雪の翌日、俳句教室へ出かけると、先生ともう一人が出席しただけで、三人で四方山話に終わった。その時先生がハモニカを持参していて、演奏してくれた80歳を少し過ぎていらっしゃるが見事な演奏であった。以前にはホールなどで仲間とコンサートに参加したとか、俳句とともに尊敬出来る人物に出逢えたこたが嬉しい。井上ひさしのの言葉も又良い。

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書く」

 

大寒や 無頼の父の 墓参り

初弾きの 三味線の音 路地流る

外に出れば 月冴え冴えと 冬空に

奥山利雄君 投稿 Pentagonal Analysis(5角形分析)

Pentagonal Analysis5角形分析)

こんな言葉があるかどうかわからないけど、横文字が好きな日本人受けが良いように敢えて英語にした。選挙公約をマニフェストだとかアジェンダと横文字で言えば嘘をついても構わないと思っている輩と同じ発想である。この分析法は5角形の蜘蛛の巣状のグラフを使った分析であり、正五角形に近いほど全項目の成績が良いというものである。項目が6項目なら6角形、hexagonalになるし、7項目ならheptagonal7角形にすればよい。こんな形で自分を分析してみると、自分の弱点が分かり、(そんな気はないが)その弱点を克服する努力をすれば弱点のない人間になれる筈である。

例えば、自分の趣味を自己分析するとき、映画、音楽、文学、絵画、スポーツのような項目を選び出し、出来るだけ正直に自分がそれぞれの項目でどの程度理解し、好きであるかを判断してグラフに描いてみる。私の5角形は花王石鹸のお月様のように絵画の部分が極端に引っ込んだ5角形になる。書画は私が一番不得意とするところである。

今度は、音楽をクラシック、洋物ポピュラー、和製ポピュラー、演歌、ジャズの5項目で分析してみよう。私の場合、ジャズを除いて結構いい線を行っているように思う。中でもクラシックについてはかなりうるさい方である。ただし寄る年波で、クラシックと言っても、最近は交響曲を一気に聞くような忍耐力がなくなり、1曲が15-20分程度の曲を聴くのがせいぜいである。昔はベートーベンやチャイコフスキーの交響曲や各種の協奏曲がクラシックだと思っていたが、今は所謂小品と言われるような曲目に魅かれる傾向がある。

そんな小品の中に、少しマニアックな方はご存知かもしれないが、リストの交響詩「前奏曲」と言う20分くらいの曲がある。この曲は何しろ恰好が良い。リストその人が先ず格好良い。ある日リストが海岸の砂の上に長々と何かを書いているのを見た人が、何を書いているのか聞いたら「昔愛した女性たちの名前を思い出して書き連ねているところだ。」と言ったそうだ。もしフランツ.リストが現代に生きていたら、モナコのグレース王妃、ジャッキー.ケネディー、ダイアナ王妃、とエリザベステ-ラーと浮名を流すようなモテモテぶりだった、と何かの本で読んだ。

この曲の題名「前奏曲」だって格好良い。本来、前奏曲(Prelude)と言うのは、歌劇などで次の幕の前に演奏される曲である。マスカーニ作曲のカヴァレリア.ルスチカーナの第2幕への前奏曲などが典型的なものである。

フランスの詩人、ラマルティーヌの詩の中に「人生は死への前奏曲以外の何ものであるか」と言う言葉があるが、それを自分の曲の題にするところなんか、指笛を吹きたくなるほど格好良い。

話は変わるが、昔、「お菓子の好きなパリ娘」と言う歌があったのをご存じだろうか?その歌の最後に「ラマルティーヌの銅像の肩でツバメの宙返り」と言う歌詞があるが、そのラマルティーヌがこの前奏曲に関係があると知ると、何だか楽しくなる。

また、曲の終わり方が、鳥肌が立つほど格好良い。戦前「オーケストラの少女」というアメリカ映画の中で演奏されたリストのハンガリア狂詩曲第2番もポピュラーだが、これもその終わり方が素晴らしい。どちらの曲も多分指揮者は曲の終わりのところで指揮台の上でジャンプをして終わるような格好良さである。前奏曲が人生であるとするなら、その終わり方、つまり死に方にまで格好をつける所にリストの真骨頂が発揮されている。

この曲が終わると、私は「ブラボー」と叫びながら、膝の上で居眠りをしている猫を蹴転がして、スタンディングオベーションを恥ずかしげもなくするのが常である。

音楽についてはまだまだ書きたいことがあるが、今日はふざけ過ぎたので自重のために、次の機会に譲りたい。

ごりせん君 投稿 「甲州気まぐれ食い物噺 6」 切り山椒

甲府盆地に春を告げる祭り、大神さんの節分にちなんで甲州食い物噺を投稿します。この祭が来ると同期の岩田悦男のことを思い出します。

今から60年も前の記憶をたどりながら書きました。当時の甲府では、この後、湯村の味噌なめ地蔵さん、5月、太田町の正木さんと続きましたね。まだその頃は信玄公祭などはささやかで農馬に乗った24将行列しただけでした。

 

午後から町田に出て、小田急デパートの地下の食料品売り場に寄ってみた。

いつもの日曜日の3割ましぐらいの人出である。売り場によっては行列もできている。

節分の『恵方巻き』なるものを売っている店だ。

今年は南南東の方向に向かって太巻きのお鮨をかぶりつくのだそうだ。

いつのまにか東京でもこの風習が定着したようだ。ここ十年ぐらい、関西のほうから伝わってきた厄除けの方法だそうだ。

でも、70歳も過ぎると太巻きにかぶりつくなど危険極まりない。お鮨がノドに詰まって呼吸困難になるなどしたら洒落にもなにも、ならないゼ。

 

甲府では今頃は柳町の大通りはあふれかえるような人ごみになっているだろうか・・・

先ずは柳町の山梨中銀のあたりから露天が並ぶ。連雀から三日町の間に柳町の大神さんが在ってそこで、豆まきが行われている。

それから柳町の角(岩田海苔店・我が友岩田悦男の店)までが露天が隙間なく並ぶ。

北に向かって左側は武蔵野館、笹屋レストランがあって、角は三ツ星スポーツ品店だった。

右側には柳生堂本店。手塚商店(建材屋)井上文具店、山田瀬戸物店などが並んでいる。

岩田の店は交通対策本部のようになっていて商売を休んで、赤白の幕が張り巡らされていつもの雰囲気とは違う。岩田の親父さんは奥の長火鉢のところにでんと構えている。

片付けられた店の中にはストーブが置かれ、警察官が交代で詰めている。

引きもきらず人の出入りがあり、岩田海苔店の1年で一番の賑わいの日かもしれない。

立春とはいえ、まだ極寒に近い。

外は盆地特有の底冷えのする、凍えるような寒さだ。

居並ぶ露天には縁起物の飾りやダルマが売られている。もちろんお祭特有の食べ物も並ぶ・・・烏賊焼き、お好み焼き、たこ焼き、ワタ菓子、やきそば、リンゴ飴、ミニカステラ・・・などなど。

雑多な匂いがアセチレンガスのにおいと混ざり合う。オモチャ、当てモノ、お面類なども子ども達の興味を引く。

そして、節分になくてはならないのが『切り山椒』その製法は分らないが、あれは春を告げる味だ。求肥に山椒独特の香りが練りこんである。

切り山椒を食べてもう直ぐやってくる春を思う。

そしてもう一つ,カヤ飴・・・カヤの実を飴で固めて板状にしたものだ。

山の木の実独特のエグミが残っていてそれが飴とよく合う。

同じような飴で、豆板、これは飴に大豆が練りこんである。ピーナッツを同様にしたものあった。

ガラガラと言うお菓子もあった・・・テトラ形のセンベイの中に縁起物が仕込んである。

 

柳町の大通りのこの賑わい今から60年も前の記憶である、町の地図も当時の街並み。

我が友、岩田悦男は30年も前に旅立ち、今はその店も無いという。

それに柳町などと言う町名も幻となった。

中央四丁目などという無粋の名前と成り果てた。

 聞けば我が家のあった村松新道も拡張されるとか・・・思い出が夢のまた夢となるのか

大柴晏清君 投稿 雨畑硯 掲載

 早川町の辻君の作詞による唄の3番に雨畑が出てきたので、因んで

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奥山君から 投稿がありました 甲府の寿司屋さん

        後日談が投稿されました。 本文の続きに掲載しました

アルジェリアの殺伐とした話題から一変して、ごりせんさんの寿司の話を見て、私の友人を思い出しました。読んでみてください

甲府の寿司屋さん

 

小学校の遊び仲間に隣部落の明ちゃんと言う農家の3男坊がおりました。小柄でいつも困ったような笑みを浮かべている気弱な子でしたが、川魚の捕り方がうまく、何故か私と馬が合い、隣部落から良く自転車に乗って遊びに来ました。ある日、母がおやつに、今でいう小麦饅頭のようなものを私たちに一つずつ出してくれました。明ちゃんは半分食べ、恥ずかしそうに「俺、腹がいっぱいだから残りを持って帰る。」と言って残りの半分をポケットに入れました。

薄々察していたのですが、彼は家庭的に恵まれず苦労していたようです。だから私に取っては普通のおやつでも、彼にとっては特別なオゴッソウだったに違いありません。私は母が隠しておいたそのお饅頭を2つ盗み出し、彼に渡すと、本当に嬉しそうに笑いながら自転車で帰って行きました。

中学に入ってからは違うクラスだったため、廊下で会っても軽い挨拶をするくらいでだんだん疎縁になって行きました。

私の生家は今の山梨市(当時は加納岩町)にあり、中学3年の時、甲府一校に入るべく甲府北中に越境入学し、甲府まで汽車通学していました。北中に転校したのは中学3年の2学期からでしたが、新しい境遇への憧れと同時に、加納岩の友達を裏切って逃げ出したという自責の念が澱のように胸の中に溜まっていました。

晴れて甲府一校に入学したての花曇りの或る寒い朝、汽車から降りた北口の通学路で、ばったり明ちゃんに会いました。彼は大きな前掛けをして寿司屋さんの店先を掃いているところでした。「おお、奥山。」と言って一瞬懐かしそうな顔をした後、何故か恥ずかしそうに、そそくさと店の中に入って行ってしまいました。彼が中学卒業と同時に、甲府の寿司屋さんに丁稚奉公をしたのを知り、何だか自分がピカピカの高校一年生でいることが恥ずかしいような、後ろめたいような気になりました。高校に通う3年間に何度か会いましたが、彼はいつも寿司を配達する桶を下げていて、すれ違っても伏し目がちに何か口の中で挨拶らしき言葉をブツブツ言って通り過ぎて行きました。私も彼に会うのが何となく疎ましく、出来るだけそのお寿司屋さんの前を通らないルートを選んで通学しました。

高校卒業の30数年の後、加納岩中学の同級生だった仲間が、「奥山だって8割は加納岩中学に通ったんだから、気にしちょし。」と言って裏切り者の私を東京で開催する同級会に呼んでくれました。明ちゃんと同じ部落の友人も来ていたので、思いついて彼の近況を尋ねたところ、「明ちゃんは良く働いたので店のご主人に気に入られ、その甲府の店を暖簾分けして貰い、今じゃあ社長さんだぞ。」と言っていました。その言葉を聞いて、何だか救われたような気がすると同時に、ちょっぴり羨ましく思いました。

66歳で退職後郷里に帰り、だんだん昔の中学や高校の仲間とも旧交を温めあうことが出来て、気になっていた明ちゃんの消息を尋ねました。

「何だ、奥山は知らなんだのけ?明ちゃんは去年癌で亡くなっちゃったぞ。」という言葉を聞いて愕然としました。何で一度彼を訪ね、昔話でもしなかったのかと悔やまれて仕方がありませんでした。それと同時に、若くから苦労して功成り名を遂げて一国一城の主となって皆に惜しまれて亡くなったことに、不謹慎とは知りつつも、羨望の念を禁じえませんでした。

                                                                                                                                 完

後日談
先日、「お寿司屋さん」を作品集に投稿しましたが、40年も前の話なのでいくつかの記憶違いがありました。一昨日、魚宗の北支店に行き、店長と話して、彼の兄さんの昭(この字も間違っていた)ちゃんのことを、色々伺いました。昭ちゃんが中学卒業と同時に奉公したのは、ごりせんさんの生家の近くの魚宗本店だったそうです。私が高校の通学または下校途中で会ったのは、多分昭ちゃんが配達で北口まで来た時のことだったのだろうと思います。昭和41年に北支店を開業したとのことですので、異例の速さで奉公から10年で暖簾分けして貰ったことになります。弱冠26歳で独立し、その店が現在まで続いているのは、回転寿司やスーパーでも寿司を売っている現在でも、その存在価値があるという証明になるような気がします。植原さんのお勧めに従って900円の並を食べましたが、懐かしい田舎寿司に昭ちゃんの涙の味がしました。
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ごりせん君 投稿 「甲州気まぐれ食い物噺 5」 鮨

緊迫した世界の情勢や思い出の文学談義に平和呆けのような文章を送るのは気がひけますが、一応連載のつもりなので今月分を投稿いたします。
 

甲州人の鮨好きは有名である。

ちなみに、人口10万人あたりの鮨屋の数は全国一だそうだ。そういえば、甲府に家があったころ、我が家を中心にして半径500メートルの円を描けば20軒ぐらいはあったのではないだろうか。

カイの国なのに海が無い・・・それだけに海産物、特に生の魚に対する憧れのようなものが強いのかも知れない。

 

さて、甲府に住んでいたころ(昭和30年前半まで)は握りの鮨を食べられるなどめったに無いことであった。

カウンターで鮨を握ってもらうなどもってのほかで、あった。

大抵出前で、鮨を取るのはお客さんが来た時か、何かハレの日だけだった。

我が家は結構来客は多かったので普通の家に比べると出前の頻度は高かった。

もちろん子ども達の分まで取ることなどはありはしなかった。

私なんぞは、ハイエナのようにひたすら残り物を狙った。

我が家で出前を取るのは大抵は鍛治町にある『Uそう』でった。

我が家からは歩いて5分ぐらいのところにある。

ここのお鮨は甲府では有名ではなかったろうか?

味はともかく・・・その大きさである。今の握りの倍以上はある。

そして、鮨の上にはツメが塗ってあって、醤油はつけなくても食べられる。

当時の鮨ネタはマグロ、煮いか、〆鯖、煮ハマグリもあったかも知れない。それに海苔のかわりに卵で巻いたまき寿司・・・中心部に干ぴょう、デンブ、キュウリなどがあった。直径が8センチぐらい厚さが2センチぐらいはあっただろうか・・・

そして巻物で鉄火巻きも入っていたか。この中でお客が残すのは大抵はしめ鯖であった。

このお鮨は〆てあるので色が変っていて(今のように赤みが残るような〆方ではない。中の中まで良く〆てある)見た目が悪い。

それにツメが塗ってあるから食欲をそそらないのかもしれない。

父親は新潟で学生から新婚まで住んでいたので色の変ったしめ鯖は好まない。

加えて姉弟も好きではなかったようで大抵残ったしめ鯖は私のところに回ってきた。

「乞食の様な真似をするな」

といつも父には叱られたが、私にとってはまさに残り物の福である・・・以来ずっと今に至るまで、しめ鯖は大好物となっている。

一度だけ母親が何でも食べたいものを取ってやると言ったことがあった。(誕生日だった)

そこで、『Uそう』の鮨を二人前をリクエストした。

姉弟に見せびらかすようにして食した。

一番好きなしめ鯖は一番後にとっておいたのだが、しめ鯖を食べようとした時にはおなかはすでに満腹であった。

それでも何でも無理やり腹に詰め込んだ。そして、その夜から腹が痛くなり次の日は一日苦しんでいた・・・バチが当たったと姉弟にバカにされた。

 

今度甲府に行ったら『Uそう』に行ってみよう・・・頼むのは並を一人前。

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奥山利雄君 中東やアフリカでの勤務には重大なリスク

  アルジェリア拉致事件に関連して

カタールの雹

1979313日私の一家、私と妻、長男(7)、長女(5歳)、次女(2歳)の5人は、ビザの書き換えのためにカタールのドーハから隣国のバーレーンの首都マナマに1泊旅行をした。

1976年日揮がカタール石油公社から受注し、ドーハの南約60㎞に位置するウムサイードに建設する石油化学プラントの付帯設備(オフサイト)工事のため、私は設計担当の責任者として家族を帯同して、1978年の12月からカタール入りしていたが、同国の規定により長期滞在ビザ取得のためには一度国外に退去して、再入国する必要があり、このバーレーン旅行となった。

バーレーンには私のマアジャン仲間の吉田さん一家が駐在しており、久しぶりの再会の喜びを2家族で分かち合った。吉田さんの子供と私の長男が同年代だったため、その夜遅くまで吉田さん宅で大騒ぎをして、ホテルに帰ったのは午後11時近かった。次の日は朝早くから再び吉田さん宅にお邪魔して、またもや大騒ぎが始まった。

 

「私たちがカタールに帰る便、午前11時のガルフエアーは既に予約されていたが、吉田さんが、子供たちがこんなに喜んでいるのだからもう一便送らせて、16時発のヨルダンエアーに乗り換えたらどうかということになり、航空会社に掛け合ってくれて便を変更した。

吉田さんに送られて午後3時にマナマ空港に着いた時にはもう子供たちは疲れ切っており、一番下の女の子は妻に抱かれて眠っていた。

314日の天気はその時期には珍しく雨模様で強い北風が吹いていたため、ヨルダンエアーRJ600便は30分以上遅れてマナマ空港を発ち、ドーハ空港上空に飛来したのは17時近かった。

地図を見るとわかるがマナマとドーハは海を隔てて直線距離で50㎞しか離れておらず、旅客機は一度上空に上がって水平飛行に入った直後、着陸するドーハの滑走路に向かって方向転換してから着陸するという飛行方法を取っていた。ドーハ空港への着陸態勢に入ったRJ600便に対して管制塔から連絡が入った。「ヨルダンエアーRJ600便、滑走路から外れているからもう一度上昇してアプローチをやり直せ。」一度下げ始めた高度を上げるのには膨大なエネルギーを要し、耳をつんざくような甲高い轟音を発して殆ど地上すれすれの高さから上昇を始めた。雨はさらに強く、また風も強くなっていて風向もめまぐるしく変わっていた。機体の進行方向を変えて2度目のアプローチに入ったRJ600便が滑走路の南端に入った時の高度は約20mだったが、管制塔はまたもや機体が滑走路から10mもずれているのを見て、再度アプローチのやり直しを命じた。

航空機は離着陸時に揚力を得るために風上に向かって飛行するのが常だが、RJ600便の着陸寸前に風向が変わり、管制官からの悲鳴に似た再浮揚の要請にも拘らず、機体は失速して車輪を滑走路から10mも外れた地面にめり込ませながら地面に突入していった。300トン以上もある機体の惰性は余りに大きく、ほとんどスピンするような形で地上を滑り、左翼をファイアーブリゲード(消防施設)の建物にぶつけて跳ね飛ばされながらもひっくり返ることもなく胴体着陸のような状態で滑走路の北端で止まった。機中の乗客は奇跡的に怪我をした人もなく、恐怖にさらされながらも着陸できたことに安堵のため息を漏らしていたが、着陸直後の緊迫したスチュワードの声で、機体から漏れた燃料に何時着火するかもわからないから、出来るだけ速やかに機体から離れろと言う機内放送があり、私が2歳の娘を抱きかかえ前方の非常口に向かった。妻は長男と長女を急がせて、みんなの後から出口に向かうよう指示をしていた。非常口は前方、主翼のすぐ後ろの中間と後方の3か所あったが、中間の非常口は扉が開かず、真っ暗な中を乗客はパニックに陥りながら非常口の明かりが見える方に進んで行った。私と妻と子供たちは完全にバラバラになり彼らが機外に出たのかどうかさえ分からなかった。その時アラビア語の大きな怒鳴り声が前方から響いてきたが、見ると前方の非常口に超肥満のアラブ人が挟まってしまって出ることが出来なくなってしまっていた。後方の非常口に向かうにも通路には人があふれていて方向転換もままならない。じりじりと時間ばかり経過してもぎっしり詰まった列は後方の非常口に向かってほとんど進まない。まだ機内には100人近い人たちが残っていたが、たった一つの非常口からの脱出は遅々として進んでいない。突然中央の非常口付近から大音響とともに火柱が上がり機内は阿鼻叫喚の地獄と化して行った。」

 

上記のカッコで囲った部分は私の知る限りの情報をもとに想像で書いたものである。事実は。

 

吉田さんの努力にもかかわらず、ヨルダンエアーの予約係から、RJ600便は満席でウェイティングリストに20人以上いると言われ、泣く泣く11時のガルフエアーでカタールに帰った。家で昼飯を食べた後、子供たちは遊び疲れて眠ってしまった。夕食前に屋根を棍棒で無茶苦茶に叩くような音がして、家の前の門柱についている電球の覆いのガラスが割れる音がしたので、出てみると野球ボールほどもある雹が降っていた。

私たちが住んでいたのはドーハ空港の南約10㎞の港町、アルワクラと言う村であったが、その雹が降った後、遠方で大砲を打ったたような爆発音がした。5分もたたない内に、会社で使っているチャンドラと言うインド人が青い顔をして我が家に入ってきて、私たちの顔を見るなり玄関口にへたり込んでしまった。聞いてみると、「今、ドーハ空港で着陸に失敗した航空機が爆発炎上して、日本人が5人亡くなったと聞いて、奥山ファミリーではないかと思って飛んできた。」と言うことだった。

 

1986年に日揮はドーハの北約80㎞にあるラスらファンに建設される液化天然ガス装置(LNG プラント)を受注し、私が日揮の代表(Project Director)として18年ぶりにカタールの現場に赴任した。日本人200人、その内日揮の関係者80人、プラント建設全体の人数が3,000人を超える大プロジェクトであった。日本大使館で催される行事には私が招かれ現地の方々との友好を深める役割を仰せつかった。その折、現地で長く新聞記者として活躍している方と知り合いになり、1979年の航空機事故について知っているかと聞いてみた。驚いたことに、彼はその時記者として取材をし、その記録はまだ残っていることを知り、私の家族が乗ろうとしていたその便に乗れなくて、九死に一生を得たことを話すと、次の日に丁寧な手紙と共に事故の模様を記した記録を送ってきてくれた。

 

ロイター通信社 カタール支局 K.N.Sharmaさんからの情報

 

Type of Aircraft(機種)                  Boing 727(ボーイング727型機)

Freight Number(機体番号)  )  RJ600

Casualties(死傷者)        45Dead, 19 Injured(死者45名、負傷者19)

Reason for Crash(事故原因)    Violent Thunderstorm(異常雷雨)

 

幸運に恵まれ、私たち一家はこの機に搭乗しなかったが、上記の死者の中には日本の商社の駐在員5名が含まれていた。ヨルダンエアーは、国際航空協定(IATA)に加盟していなかったため、航空会社から遺族に支払われた金額は一人一律300,000円だった。

 

日揮の関係者がアルジェリアでテロの拉致された事件から、中東やアフリカでの勤務には重大なリスクが伴うことの一例として、私の経験を書いた。

                                                                                                                             

 

奥山利雄君 趣味の第4話   「おたんちん」 掲載

おたんちん

この言葉は侮蔑的に「馬鹿」よりは好意的に「アホ」位の軽い言葉として良く使われたらしいが、最近は殆ど聞かれることがない。

しかしこの言葉が「吾輩は猫である」の中に出てくると言ったら驚く方が多いと思うが、何故か私は50年以上前に読んだ本の中に書かれていたのを記憶していた。むちゃく先生が奥さんに向かって「お前はオタンチン.パレオロガスだ。」と言うセリフがあったように覚えている。確かめるために20号線沿いのブックオフに出かけて漱石の本が並んでいるところで本を見つけ、家に帰って確かめようとしたら買ってきた本が「坊ちゃん」で、自分のアホさ加減を嘆きながら、「まあ、少々の間違いは許してたもれ。」と言う心境で、いつもの与太話を書くことに決めた。

会社に入って最初の出張が大分コンビナートで、当時の2等寝台「富士」で16時間かけて大分まで旅したとき、睡眠薬代わりの本をキオスクで買って、蚕棚に寝転んで読み始めた。俗な言い方をすれば、その面白さにぶっ飛んでしまい、とうとう一睡もせずに読み終えてしまった本がフレデリック.フォーサイスの「ジャッカルの日」だった。それで翻訳本のとりこになり、所謂ストーリーテラーと言われる作家たち、フォーサイスをはじめ、アーサーヘイリー、ジョンルカレ、ジェフリーアーチャー、ケンフォレット、ブライアン.フリーマントル、など会社の友達との回し読みをしながら、殆ど週に1冊のペースで読んでいた。本屋に行っても、先ず目につくのは面白そうな翻訳本で、新しい作家の本を試し読みして面白かったりすると、とんでもなく儲かったような気になる。そんな作家のひとりにロバート.ゴダードと言う英国の歴史を題材にした重厚な小説を書く作家がいる。

ゴダードの「悠久の窓」(英語名Days without Number)と言う本の中の主人公はビサンティン帝国の最後のパレオロゴス王朝の子孫と言う設定になっている。本を読んでいるときにはあまり気にならなかったが「パレオロゴス」と言う名前が気になって50年以上昔の記憶に辿り着いた。つまり、漱石が「オタンチン.パレオロガス」と言っていたのは、「ビザンティン.パレオロゴス」のことだったのだと推測して、またもやぶっ飛んでしまった。私は文学的大発見をしたと悦に入り、これを学会に発表しようと思うほど自己満足に浸っている。

漱石には文学者としての名声もあるが、一面、戯作者的な要素も多分にあり、「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」などは後者の要素が強い作品であると思う。だから、今はやりの親父ギャグではないが、「ビザンティン.パレオロゴス」を「オタンチン.パレオロガス」と言ったと強弁しても罰は当たらないと思う。

皆さんは、私の学説を支持してくれますか?

大柴晏清君 投稿 おすしやさん 掲載

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第30回 北野生涯教育振興会 論文&エッセイ 一席入賞作品
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ごりせん君 投稿 「甲州気まぐれ食い物噺 4」 豆餅

甲州気まぐれ食い物噺・4 豆餅   ごりせん

暮れのうちに投稿しようと思っていたのだが、生来の怠け癖が出て年を越してしまった。

せめて松の内と思って、今回は餅の話。

 

我等の幼い頃は餅など口に入るわけもなかった。

白いご飯なども夢のまた夢の時代。

餅を正月に搗くことが出来るようになったのは昭和25年ぐらいからではなかったろうか。

私は小学校3年までは南巨摩の旧中富町切石というところにいたのだが、そこで正月に何年かぶりに餅を搗いた・・・昭和23年のことだった。

叔父の連れ合いさんが身延の参道の近くの『甘養亭』と言う饅頭屋から嫁に来た。

そこでもち米などが届いたのかもしれない。

叔母はまさに『昔取った杵柄』で、杵をとっても、返しをしても、それはそれは見事なものだった。

小学2年生で生まれて始めて食べたその餅の美味しかったこと。

裏の畑から抜いてきた大根をおろしたからみ餅がこの世のものとは思えない旨さだった。

その時、ひと臼だけ豆餅を搗いた。

これがまた今までに食したことのない食感と複雑な味わいであった。

餅の中に豆がつきこんであり、他に、青海苔、柚子の皮、砂糖、胡桃なども入っていたように思う。

蒸篭でもち米を蒸かす時に真ん中の大豆を入れておく。

そして、それを石臼でもち米と一緒に搗きこんでいく。

 

直ぐ上の姉が嫁いだ旧白根町西野では、搗き上がった餅に豆のかわりに砕いたピーナツを入れて上記の青海苔胡桃等等を練りこんでしまうとのこと。

豆餅の場合はのし餅や、丸餅にしないでナマコ状にして適度に固くなった時に1センチぐらいの厚さに切る。

保存食としても優れた食品であると思う。

豆餅が甲州独特の食べ物であるのかどうかは分からないが、東京で買う豆餅とは味が違う。

昔のあの味を食してみたいと思っていたところ、鰍沢の『塩の華』と言う物産館で売っていた豆餅が昔の味に近かった。

お盆に墓参りに行った帰りに買いこんで、冷凍して楽しみに食べた。

今年の正月は姉のところからピーナツ入りが送られてきた。

一緒に甲州名物枯露柿も入っていて嬉しかった。

大柴晏清君 投稿 終わりの授業 裏切りの記憶 一挙2作掲載 

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国語の先生・・・
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バスケット部記念誌掲載分より転載したものです。
裏切りの記憶.pdf
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奥山君 趣味の話 

  掲示板に3日に亘り投稿頂いたもの 再掲載

抜きと寄せとフライパン

間もなく正月で、このブログを見ている人が多くないことを期待して、3日続きの与太話を書くことにしました。
先ず、「おっかなくて、臭くて、甘いものなーに?」というなぞなぞがありましたが、答えが分かりますか?これが今日の題のヒントになっています。答えは最後の日にお教えしますね。
私の趣味の一つにアユの友釣りがあります。食べて美味しい清流の女王アユには普通の川魚とは違った性質があります。その第1は餌です。アユの食料は昆虫や川虫ではなく、川の中の岩や石の表面に発生する苔なのです。だからアユを釣るには餌で釣ることが出来ないのです。この苔を確保するためにアユは川の中に縄張りをもち、自分の縄張りに入って来る余所者のアユに体当たりをして縄張りの外に追い出すのです。これが第2の性質です。この性質を利用して、我々の祖先はアユの友釣りと言う漁法を発明したのですが、この観察眼と頭の良さは正にノーベル賞ものです。
長い竿の先から伸びた釣糸の先に生きたアユ(友アユ)を付け、その腹ビレの所に、けんか相手の縄張りアユを引っ掛けるための針をつけ、縄張りアユが居そうな場所に友アユを誘導します。自分の餌場を荒されると思った縄張りアユは、入ってきた余所者に体当たりをくらわせて追い出そうとしたその瞬間、針にかかり大暴れ。竿を操っている釣り師は竿から伝わる電気ショックに打たれ、掛かりアユと友アユの2匹ついた竿を立てて自分の方に寄せてきます。掛かりアユは背中や腹に針が刺さっているため逃げようとして暴れるのですが、このアユを玉網の中に収めるまでが釣り師の醍醐味なのです。
20年くらい前までは竿の材料は竹で、名人の竿師が作ったものを使っていましたが、今ではカーボン素材の竿が出来て、軽く、長く、しなやかで強度もあるため釣り方が変わってきました。昔は竿を操作して掛かりアユを近くに寄せ、釣糸をつかんで友アユ、掛かりアユ共に水中から引き揚げて玉網の中に吊るし込む取り込み方法をしていましたが、最近では竿の弾力を使って友アユと掛かりアユの両方を水面に浮かせて、そこから空中輸送で玉網の中に取り込む方法が主流となってきました。
話が長くなりましたが、この空中輸送の取り込み法を「抜き」と呼んでいますが、これが今日のお題です。
生きた友アユを水中で自然に泳がせるためには、水の抵抗の少ない出来るだけ細い糸、髪の毛の太さの約1/10の太さの糸を使う必要があります。それに掛かりアユの抵抗、水流の抵抗が加わり、さらに空中輸送の重量も加算されるので、竿のしなりと糸の強度に見合った強さで引き抜かなくてはなりません。この抜きのテクニックをマスターするのには少なくとも5年間は川に通わなくてはなりません。私も一応抜きをやりますが、おっかなびっくりのへっぴり腰でやるため、折角の釣りアユを逃がしてしまったり、糸を切らして友アユまでも逃がしてしまうことがあります。
明日は

、「寄せ」の話をしますね。お楽しみに。

与太話を書き 今日のお題は「寄せ」です。
これも私の趣味というより生甲斐ですが、超へぼゴルフで残り少ない人生を謳歌したり、悩んだりしています。
ゴルフと言う競技は力技でぶっ飛ばしたり、微妙なタッチで寄せたり、パットしたりの剛柔入り混じった不思議なスポーツです。70歳を過ぎてからは力では勝てないので、技で勝負しようと言う気になって寄せ(英語ではアプローチ)に命を懸けていますが、これが曲者でなかなか思うようにいかないので悩んでいます。
50m先のグリーンに旗が立っており、その旗の下にはボールを入れるホールがあるとします。ゴルフボールを50m飛ばすにはフワッと上げたり、ゴロで転がしたり幾通りもの選択肢がありますが、ゴルファーは自分の頭の中のイメージに従ってシナリオを作ります。例えば「グリーンの手前にバンカー(砂場)があるので、バンカーのすぐ向こう側に落ちるようにボールを上げ、そこから旗までとろとろ転がっていくように打とう。」と考え、素振りを繰り返し、ボールの所に行ってもう一度旗の位置を確認し、クラブを振る強さを再確認してボールに相対します。
思った通りにうまく打てて自分の技量に満足しながら飛び上がってガッツポーズを決めることまで想像してるのです。
そこで、何も考えずにスッと打ってしまえば問題ないのですが、「待てよ、グリーンが左に傾斜しているのでボールの落としどころは旗より少し右にした方が良いな。」と考えたり、ボールが転がりすぎないようにボールに逆回転(英語ではバックスピン)をかけよう。ボールの手前を叩かないように左足体重で、クラブを早く立てて(英語ではアーリーコック)打とう。」などと考えを訂正します。そのうち「いや待てよ、こういうこともあるぞ。こうしたらどうだろう。」と考えているうちに頭の中の真空管が過熱状態になり、周囲の仲間たちの視線も気になり、初め自分が考えていたのとはまるきり違ったぎこちない打ち方で「エイッ。」と打ってしまいます。
ボールは無惨にもバンカーの中の砂にめり込んでしまって、その後は地獄を見るという訳です。自分の頭をクラブでガンガン叩きながら「なんで俺は初め思った通りに打たなかったんだ。」と反省と自虐の入り混じった言葉をブツブツつぶやきながらすごすごと引き上げてくるのが私の寄せなのです。
こんな惨めな気持ちで新年を迎えたくないです。
ではまた明日。 

さて、私の与太話も最終回です。今日のお題は「フライパン」です。
今まで私の 

今まで私の趣味について書きましたが、料理も私の趣味の一つですが、独居老人としては料理をしないで済むような環境でないということもあります。
私の料理はそれほど凝ったものではなく、出来るだけ料理の素材を生かした料理です。なんちゃって、本当は面倒が嫌いなだけなのです。
野菜を食べるために、てっとり早く出来る料理に野菜炒めがあります。朝食はパン食が多いので、ニンニクのたっぷり入った野菜炒めを作ります。材料はニンニク、ベーコンの千切り、人参、玉ねぎ、キャベツなどですが、野菜炒めの命は出来るだけ手早く料理し、アツアツでシャキシャキの歯ごたえのあるものだと思い込んでいます。
そこで登場するのがフライパンです。熱く熱したフライパンに軽く油を敷き、ニンニクとベーコンで油に香りづけをしたところに玉ねぎ、人参、キャベツの順に材料を入れ強火で炒めます。フライパンを動かして、中身を向こう側の壁にぶつけるようにしながら上に跳ね上げ、手早く中身の上下をひっくり返し全体に火が通るようにするわけですが、ここに問題があります。
フライパンを先ず引いて、中身をこちら側に寄せて、勢いをつけて向う側の縁に滑らせるようにしながらタイミング良く中身を跳ね上げるのですが、優柔不断な私はどうしても躊躇してしまうのです。肩に力が入り、フライパンを勢いよく前に押し出すことが出来ず、跳ね上げてしまったり、勢いが良すぎて中身を外に飛び出させてしまったり、決して上手くいくことはありません。仕方ないからしゃもじで中身をひっくり返したり、菜箸でかき混ぜていますが、野菜炒めの命であるシャキシャキ感が損なわれた不本意な料理に成り下がってしまいます。

そうです。抜きと寄せとフライパンに共通するのは、決断力、タイミング、思い切りなのです。自分の優柔不断さのために私の趣味はどれも不完全燃焼の中途半端なものとなっていて、女性にもてないのもこれが原因なのです。

所で、初日のなそなぞ「おっかなくて、臭くて、甘いものなーに?」の答えは解
ましたか?
答を聞いたら非難されること間違いありません。全く人を馬鹿にしています。「鬼が便所でまんじゅうを食っている。」なんだそうです。
誰だって、一つのもの、または一つの現象が「おっかなくて、臭くて、甘い」ものを考えますよね?そんなのルール違反だよ、とおっしゃる方もいると思いますが、コロンブスの卵的に言えば、何でも有りなのです。
それに比べたら、私の「抜きと寄せとフライパン」の方が遥かに理論的だとは思いませんか?

ここまで書いてきたものを読み直して自己嫌悪にさいなまれております。
あーあ、今年も何にも進歩のない1年を無駄に過ごしたなあ。

皆様にとって来年が進歩に満ちた良い年で有らんことを祈りつつ。

 

大柴晏清君 投稿 丑三つ時

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前回の「甲府駅」に続き(大柴君曰く)零落シリーズの2作目です。
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大柴晏清君 投稿 甲府駅

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大柴晏清君 投稿 短編 キャップ大使

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大柴晏清君  投稿 新相馬

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ごりせん君 投稿 「甲州気まぐれ食い物噺 3」 中華そば

甲州ラーメンなるものがあるように聞いたことがあるが、本当だろうか。

この年になると、ラーメン食べ歩きなどはもってのほかで、特に高血圧には直に影響が出てきそうである。

けれど我が高校時代に食べた味をもう一度味わいたいと思う時がある。

それは、梨大の付属小学校の近くにあった店で・・・店の名前が思い出せない。

『マルシゲ』だったような気がするが、誰か覚えていたら教えてほしい。

一高から直線距離にして500メートルぐらいの所だったろうか、北新町だったと思う。

昼時、弁当を持って行かなかった時に、そこまで食べに行った。

ちゃんとした道をたどっていくと迂回するので15分ぐらいかかる。そこで、グランドをつっきって、フェンスを乗り越えて時間を短縮して午後の授業に間に合うように帰ってきたものだ。

ここの中華そばの特徴は魚介系のスープだった・・・舌がよく覚えているわけではなく、風景の記憶である。店の裏に、ダシを取ったあとの煮干や、サバ節などが干してあったのだ。

記憶の中では取り立てて美味しかったというわけでもないのだが、ここのトッピングが天麩羅だった。

一応シナチクやチャーシューのようなものが入っていたと思うが、その上に野菜の掻き揚げを載せるのだ。

麺だけでは満たされない食欲を天麩羅で補うというわけである。

この天麩羅の中に紅しょうが入っていてその辛味と塩味が刺激的で、中華スープの魚介系のスープとよく合っていたように思う。

高校を卒業してからあの店に行ったことはない。すでに50年以上の歳月がたっているので店もなくなっているだろうなぁ・・・

腹をすかして学校を抜け出して食べに行ったというシュチュエチェーションがあっての味であるとは思うが時々思い出して食べたくなる。

自分でラーメンを作ったときなどに、スーパーの掻き揚げの天麩羅を買ってきて再現してみるがやはり青春の味とは似て非なるものだ。

中央高速の釈迦堂の上りパーキングエリアの食堂で出すラーメンに時々、日本そば用の掻き揚げを載せてもらうことがあるが、チョッと味が近いかもしれない。

でも、『天麩羅のせてくれ』というと、怪訝な顔をされる。連れ合いも『行儀が悪い』といって顔をしかめる。

 

上履きで校庭を走り、一メートル以上もある金網のフェンスを乗り越え、畑道を通って、国立病院の前のアスファルトの道に出て、和田峠の方に向かう坂道を息せき切って走っていく、自分の姿を思い浮かべる。

もう一度食べてみたい。

あのギトギトの天麩羅油の浮いた中華そば。

甲州ラーメンなるものがあるように聞いたことがあるが、本当だろうか。

この年になると、ラーメン食べ歩きなどはもってのほかで、特に高血圧には直に影響が出てきそうである。

けれど我が高校時代に食べた味をもう一度味わいたいと思う時がある。

それは、梨大の付属小学校の近くにあった店で・・・店の名前が思い出せない。

『マルシゲ』だったような気がするが、誰か覚えていたら教えてほしい。

一高から直線距離にして500メートルぐらいの所だったろうか、北新町だったと思う。

昼時、弁当を持って行かなかった時に、そこまで食べに行った。

ちゃんとした道をたどっていくと迂回するので15分ぐらいかかる。そこで、グランドをつっきって、フェンスを乗り越えて時間を短縮して午後の授業に間に合うように帰ってきたものだ。

ここの中華そばの特徴は魚介系のスープだった・・・舌がよく覚えているわけではなく、風景の記憶である。店の裏に、ダシを取ったあとの煮干や、サバ節などが干してあったのだ。

記憶の中では取り立てて美味しかったというわけでもないのだが、ここのトッピングが天麩羅だった。

一応シナチクやチャーシューのようなものが入っていたと思うが、その上に野菜の掻き揚げを載せるのだ。

麺だけでは満たされない食欲を天麩羅で補うというわけである。

この天麩羅の中に紅しょうが入っていてその辛味と塩味が刺激的で、中華スープの魚介系のスープとよく合っていたように思う。

高校を卒業してからあの店に行ったことはない。すでに50年以上の歳月がたっているので店もなくなっているだろうなぁ・・・

腹をすかして学校を抜け出して食べに行ったというシュチュエチェーションがあっての味であるとは思うが時々思い出して食べたくなる。

自分でラーメンを作ったときなどに、スーパーの掻き揚げの天麩羅を買ってきて再現してみるがやはり青春の味とは似て非なるものだ。

中央高速の釈迦堂の上りパーキングエリアの食堂で出すラーメンに時々、日本そば用の掻き揚げを載せてもらうことがあるが、チョッと味が近いかもしれない。

でも、『天麩羅のせてくれ』というと、怪訝な顔をされる。連れ合いも『行儀が悪い』といって顔をしかめる。

 

上履きで校庭を走り、一メートル以上もある金網のフェンスを乗り越え、畑道を通って、国立病院の前のアスファルトの道に出て、和田峠の方に向かう坂道を息せき切って走っていく、自分の姿を思い浮かべる。

もう一度食べてみたい。

あのギトギトの天麩羅油の浮いた中華そば。

大柴晏清君 投稿  異邦人

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ごりせん君 投稿 『甲州気まぐれ食い物噺 2』 ほうとう

ほうとう
甲州の食べ物の代表と言えばやはり『ホウトウ』だろうナァ。
今や全国区で山梨に行ったら必ず食べる・・・観光コースに組み込まれているのではないだろうか。
けれど食堂などで供されるのは意外と歴史は新しい。
我らの高校時代にはホウトウを食べさせる店など無かったはずだ。
確か『小作』と言う『ホウトウ』専門店が出来た事によって有名になったように思う。
この店が開店したのは1970年代の初めのはずだから、甲州名物となったのは40年足らずの歴史と言う事か・・・
しかし、『ホウトウ』そのものはずっと昔から食べられていて、それぞれの家庭の味があったはずである。
正直、甲府に帰省してそれが看板メニューとなっていることに驚いたものだ。
ところで我が家では・・・父の故郷は、南巨摩郡静川村切石・・・現在は中富から身延町になってしまったがなかなか馴染めない。
ホウトウはもちろん食べていたが、『のしいれ』といっていた。
地粉を水で練って団子状にしてそれから少し寝かせてうどんに打つ。
まるいカタマリを板状に麺棒で延ばしていく。そして折りたたんでうどん丈に切る。
のして、汁の中に入れるので『のしいれ』ダイレクトな名前である。
我らが食べた時代は戦中から戦後にかけてであるから肉のようなものは入れていなかった。
具は野菜が中心で、必ず入っていたのは里芋、人参、大根そしてそのときにある野菜。
『うまいもんだよカボチャのホウトウ』のカボチャは必ずしも入れなかったようだ。
 祖母や母が作っていたホウトウを紙上で再現すると・・・・
材料 里芋・人参・大根・(あれば・・・ごぼう・カボチャ・ジャガイモ)油揚げ。
  出汁は煮干で取る。味噌は自家製の味噌。(今はお好みで)
作り方 出汁を煮干で取って、煮干はそのまま入れておく。野菜は食べやすい大きさに切   
  て、油揚げと一緒に煮込む。野菜が柔らかくなったら、味噌を入れる。しばらく味を
  馴染ませて、生うどんを入れる。(今は自分では打てないのでそれようのうどんを買う)
  うどんの芯が無くなったところが食べごろ・・・20分ぐらいかかるかもしれない。
我が家は今もこれを踏襲しているが山紫会の諸氏はどのように作り、食べているだろうか・・・是非知りたいものだ。
実は、自家製のホウトウには次の日の楽しみがある。
冷たくなって煮こごりのようになった物を温かいご飯に載せて食べるのだ。
見た目は行儀が悪いけれどこれが楽しみで、血圧には悪い事は分かっているけれど1年に何度かは作る。

中村房江さん 投稿  続甲州の秋

11月の雲ひとつない秋晴れの日、知人のNさんが勝沼のぶどうの丘美術館で「仏画展」を開いていたので訪ねた。勝沼はぶどう狩の観光客で賑わっていたが美術館はひっそりとしていた。紺の作業衣姿のNさんが迎えてくれた。何十年か前、観音像の製作で久留米の成田山にかかわったことでNさんは仏画を始めた。インド・スリランカに取材旅行したという話も聞いた。二十代の頃は抽象的具象画でずいぶん現代的な油絵を書いていた。百号の大作が20点近くサムホールの小品も数十点に及んでいた。仏像・大日如来・薬師如来・百済観音等々(普段は大作5点はある寺の本堂におさまっていた)あまりの精密さに画の前に立つと、じんと来るもの物があった。Nさんは5年ほど前に検診で肺ガンが見つかり手術その後何か月かに1回の検診を受けそのつど又、一作が画けるという日々を過ごしてきた。そしてとうとう「もう大丈夫です」と医者から言われ今回の展覧会になったのだ。清々しいNさんの笑顔、彼がどんな思いでこの5年間を過ごしてきたのか知ることもできないが、これからの画業に期待して紅葉の始まった山を見ながら勝沼を後にした。

 

行く雲に 思いをのせて. 秋暮かな

 

いわし雲 みあげる我の 孤独かな

ごりせん君 投稿 『甲州気まぐれ食い物噺 1』 カツ丼

上京してからすでに50年が経つ。甲州で暮らしたよりも東京の生活の方がずっと長い。

甲州の山猿が東京に出てきて驚いた事は沢山あるけれど、やはり食い物である。

今なら甲府までは特急で一時間でいけるが、50年前はやはり異国に出かけるような気分になったものだ。

当時は笹子峠が行く手を阻んで、物流が難しかったのではないだろうか。

けれど笹子トンネルが開通して、中央高速が通って今から何年か後にはリニア(おそらくこれには乗ることはないだろうが)も通るとか

甲府の近郊も東京のベッドタウンとなるやも知れぬ。

 

それはさておき・・・50年前に上京した折に下町の食堂に入った。

お品書きを見て頼んだものは慣れ親しんだカツ丼であった。

待つことしばし・・・運ばれて来たものが甲府で食べていたモノと違うではないか。

これは『煮カツ丼』カツが卵でとじてあるのだ。

「あのう・・・カツ丼を頼んだのですけれど」

「これがカツ丼ですよ・・・何か」

どうやら東京ではカツを卵でとじたものを言うらしい・・・とすると甲府で食べなれていたカツ丼はなんと頼めば良いのだろうか。

丼に刻みキャベツを敷いてその上に揚げたてのカツを切って載せる。

そして丼の蓋をして運んでくる。この蓋をして運んでくる1分ぐらいの間が大事なのだ。

キャベツがシンナリとしてご飯にもカツにも馴染むのだ。

ここが最も大事・・・食べる時にはカツ全体にウスターソースをかける。

中濃や,ブルドックソースは不可だ。ソースがご飯に滲みていかないからだ。

それから丼の蓋に何切れかのカツを置いて、ご飯を食べていく取っ掛かりをつける。

カツとご飯ときゃべつがほどよく三位一体となってウスターソースがからんでいく。

文章を書いていながら生ツバが出てくる。

 

こういうカツ丼は東京にはないのだ。実は甲州でもこのようなカツ丼はほとんど姿を消して、カツ丼と言えば『卵とじカツ丼』が主流のようだ。

強いて頼めば,『甲州カツ丼』と言うのだそうだ。

それも限られた店でしか出していないとか・・・一昨年我が友ヤーペンが県庁近くの『田原屋』と言う牛鍋屋がメニューに載せていると知らせてくれた。

甲府に行った折にさっそく行って見た。

丼の蓋が無く、ソースもウスターではなかったけれどほぼ昔の味に近かった。

近年、ご当地グルメで『ソースカツ丼』なるものが各地にあるそうだが、似て非なるモノ。甲州カツ丼も復活をして欲しいものだ。

大柴晏清君 投稿 「山門」

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大柴晏清君の自信作
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 大柴晏清君 投稿 「運針」

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中村房江さん 投稿  甲州の秋

甲州の秋

「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」蛇笏。今、文学館で没後50年、近代俳句を代表する俳人飯田蛇笏展が開かれている。この句はまさに甲州の秋を歌っている。甲州の秋は格別だ。澄んだ高い空、山の稜線の清明さ、そして富士山、紅葉もまもなく始まる。この佳き時に、車に接触して自転車のハンドルで胸を打ってしまった。近くの松木整形へ、幸い骨には異状は無かった。「70を過ぎたら自転車は危ないよ」と言われた。ちなみに、松木先生は同級生の仲山さんの弟である。つくづく老いを感じて少しウツになった数日である。皆さんも気をつけて

   紫の 秋の朝顔 咲にけり

   十五夜の 月に向いて 路地を行く

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依田逸夫君 投稿  分岐点

高校の時の同期会『山紫会』(昭和34年卒)のホーム・ページを開いたら母校の大のイベントである『強行遠足』の告示がされていた。
現在は母校の山梨県立甲府第一高等学校を出発して長野県の小海まで向かう。
全長は75キロだそうだ。
行程は甲府から韮崎、北杜、清里、野辺山を経て小海まで,佐久往還である。
女子は出発点を北杜市の高根支所にしてゴールは男子と同じ小海だそうだ。

今から54年前の我らのころは甲州街道を歩いて、松本まで向かった。
24時間かけていけるところまで行く文字どおり『強行』であった。
当時の記録を見ると男子参加者が1190名で目標のゴールである松本(120キロ)到達者が104名。
一番多いのは諏訪湖畔の岡谷(約70キロ)で289名だった。(昭和33年)

私の高校在学中『強行遠足』は3度行われた。
チャンスは3度あったのに私はいずれの時も岡谷までしか行けなかった。
正確に言うと、行かなかったのだ。
最初の年、昭和31年は岡谷まで行けば上出来だった。
二度目は32年、1年先輩の岩間孝吉さんが前人未踏の最長走破記録を樹立した・・・松本のずっと先で新潟県に近い簗場までで、167.2キロである。
私は相変わらず岡谷・・・私の倍以上を走破したわけである。
そして、高校3年生となった昭和33年満を持して松本まで行ってやると決心した。
けれど、この年は夏休みにブクブクと太り始めて体重が16貫から18貫へとなっていた。
実に8キロの増である。
すっかり弛緩してしまった身体で岡谷から先までを歩きとおすことなど出来ようか・・・
当日、岡谷まで至った時は午前1時ごろだったと思う。
左に行けば岡谷駅、右に行けば次の検問所のある川岸にいく。
そこで考えた、右を取るか左をとるか・・・分岐点に立って、持っていた杖で決めようと。
杖が倒れる方向に進む・・・杖は左に倒れた・・・と言うよりも、左に倒した。
結果、自分の強行遠足は三年連続の岡谷止まり。

家に帰って父に報告すると、『マァ、お前の人生も岡谷止まりということだな』と断じた。
遠くも無く近くもない。そこそこの距離で、289名と言う数も参加者の中で一番多く平均的なのだ。
我が人生もそこそこと言うところか。
偉くもならず、それでも惨めでは無かったナァ。

時々思うのだが、もし時を戻すことが出来て、やり直しができるのなら。あの時間の岡谷の分岐点に身を起きたい。
そしてもう一度杖を立ててみたい・・・右に倒して人生のやり直しをしてみたい。

でもやはり、私はまた左に倒してしてしまうだろうナァ・・・

 

**************************



ブログ分  国語世論調査より

   言葉 間違えていません

20日公表の文化庁の国語世論調査よりますと

 

中途半端でないことを示す「ハンパない」

正反対を「真逆」(まぎゃく)

    ともに16歳~19歳では60%以上も使うそうですが

    60歳以上でも7%が使うそうです。

    嘆かわしい と思うのですが、皆さんどう思いますか。

 

以下の 慣用語・言葉の意味分かります。どちらが辞書・辞典に本来の使い方として載いるでしょう。

  これまで間違った使い方していませんでしたか。

   漢字は、全然書けなくなりました。パソコンが原因・歳?

 

煮え湯を飲まされる

   信頼していた者から裏切られる。

   敵からひどい目に遭わされる。

うがった見方をする

   物事の本質を捉えた見方をする。

   疑って掛かるような見方をする。

にやける   例文 彼はいつもにやけている

   なよなよとしている。

   薄笑いを浮かべている。

割愛する   例文 説明を割愛した。

   惜しいと思うものを手放す。

   不必要なものを切り捨てる。

失笑する    例文 彼の行為を見て失笑した。

   こらえ切れずに吹き出して笑う。

   笑いも出ないくらいあきれる。

「本心でない上辺べだけの巧みな言葉」を

    舌先三寸

    口先三寸

「何かを食べたくなる 転じて ある事をしてみようという気になる」ことを

    食指が動く

    食指をそそられる

「快く承諾すること」を

    二つ返事

    一つ返事

『世間の人々の議論を引き起すこと』を

    物議を醸す

    物議を呼ぶ

「ひっきりなしに続くさま」を

    のべつまくなし

    のべつくまなし

 

以上ですが、如何でしたか。

正解?は上段が正しいようですが、今後、どちらも正解なんてなりかねませんね。

   **************************

 

依田逸夫君 投稿 

今は亡き友の思い出をブログに綴りましたので作品投稿いたします。

 

         挨拶状

 

先日、古い手紙を整理していたら、昭和41年7月1日の日付の挨拶状が出てきた。竹馬の友、岩田悦男の家業専念の挨拶だった。
彼は故郷甲府の古い乾物屋の息子で、次男坊であったが家業を継いだ。
小学校3年の時からの付き合いで中学・高校は同窓だった。
大学は慶応大学商学部に進学し卒業してからは浅草鳥越の乾物店、築地の海苔店で修業をしている。
この挨拶状は無事修業を終えていよいよ自分の家での家業の始まりを告げるものだった。
昭和41年は私にとっても思い出深い年であった。
大学を卒業して東京都西多摩郡秋多町立東秋留小学校で教師としてスタートした年である。

 

岩田は帰郷して家に入っても直ぐに何かが出来たわけではなく親父さんの下で甲府での商売のやり方のスタートだった。
この7月1日頃は私は住む家が無くて、学校の宿直室を仮の宿としていた。
24時間勤務のようなものでそれはそれでおもしろかったが・・・

 

岩田はそれから2年して伴侶を得て、男子2人に恵まれる。
しかし、35歳の時の検診で一番最後の直腸のところに病巣が見つかる。
直ちに手術をして小康を得たが、それから4年して再発して昭和54年9月15日にみまかった。
今の医学をもってすれば命を永らえることが出来たかも知れないが・・・
妻や子ども達に想いを残しての無念の旅立ちだったに違いない。
あの日も暑い一日だったなぁ・・・
訃報を聞いて駆けつけた時に、蜩(ひぐらし)のもの哀しい鳴き声が耳について離れなかった。
2日後の葬儀の時は早すぎる彼の死を惜しむ人たちが柳町の角の彼の店の前に長蛇の列をなした。
そして、今年は33年目を迎えたが、今は彼の家はないという。
都市計画で道路に当たってしまい、この春取り壊されたそうだ。
柳町の角の店で通った老舗岩田海苔店も20年ほど前に店を閉じた。
生きながらえて33年の激動の時代彼の才覚でどのように生き抜いたかを見てみたかった気もするが、良き時代に業を終えたのではないかと言う気もする。

 

私もそろそろ終い支度が近づいてきた
今朝も家内にクローゼットの中のおびただしい衣類について・・・
「もう、着ないものは捨てて」
と厳しく言われた。
「ビデオなんてもう見ないのだから、捨てなさい」
今はやりの断捨離と言うわけである。

 

グズグズしていると、私が捨てられそうだなぁ・・・

 

    **************************

岩田は帰郷して家に入っても直ぐに何かが出来たわけではなく親父さんの下で甲府での商売のやり方のスタートだった。
この71日頃は私は住む家が無くて、学校の宿直室を仮の宿としていた。
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時間勤務のようなものでそれはそれでおもしろかったが・・・

岩田はそれから2年して伴侶を得て、男子2人に恵まれる。
しかし、35歳の時の検診で一番最後の直腸のところに病巣が見つかる。
直ちに手術をして小康を得たが、それから4年して再発して昭和54915日にみまかった。
今の医学をもってすれば命を永らえることが出来たかも知れないが・・・
妻や子ども達に想いを残しての無念の旅立ちだったに違いない。
あの日も暑い一日だったなぁ・・・
訃報を聞いて駆けつけた時に、蜩(ひぐらし)のもの哀しい鳴き声が耳について離れなかった。
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日後の葬儀の時は早すぎる彼の死を惜しむ人たちが柳町の角の彼の店の前に長蛇の列をなした。
そして、今年は33年目を迎えたが、今は彼の家はないという。
都市計画で道路に当たってしまい、この春取り壊されたそうだ。
柳町の角の店で通った老舗岩田海苔店も20年ほど前に店を閉じた。
生きながらえて33年の激動の時代彼の才覚でどのように生き抜いたかを見てみたかった気もするが、良き時代に業を終えたのではないかと言う気もする。

私もそろそろ終い支度が近づいてきた
今朝も家内にクローゼットの中のおびただしい衣類について・・・
「もう、着ないものは捨てて」
と厳しく言われた。
「ビデオなんてもう見ないのだから、捨てなさい」
今はやりの断捨離と言うわけである。

グズグズしていると、私が捨てられそうだなぁ・・・

中村房江さん  投稿 

  再会

3年前の9月、長坂コミュニティ―ホールにイラン映画「アフガンの子供たち」を見に行った。バーミヤンの石仏がタリバンによって無惨に破壊された村を背景に少年と少女の話だが、美しい戦場の村の風景は今も鮮明に思い出される。

その帰り長坂駅で甲府行の電車を待っていた時、雨が降りひどく寒い日だったので隣に座っていた女性に思わず「寒いですね」と声をかけたところ「渡辺さん?」と私の旧姓を口にした。「私Aです」50年ぶりの再会であった。帰りの電車の中ではその後の彼女の人生が一気に語られた。ドイツに留学し、フランクフルトでドイツの銀行に勤め定年を機に帰国し政府の関連事業にに勤めたこと、甲府の生家に戻り母上を看とって今はマンションで一人暮らし等等、その日が始まりでちょくちょくランチをするようになった。ヨーロッパ中を旅したこと日本の旅の話、芸術の話、とりわけクラッシック音楽には造詣が深く金森さんともつきあいがあった。そのAさんと8月26日、吉田の火祭りに行った。私は二度目だったが彼女は念願が叶ったと喜んだ。雄大な富士を背景に何十本という大松明が赤々と燃え幻想的であった。そして8月31日最後の夏のプレゼントがあった。飛騨牛が手に入ったので食べに来ないかというお誘い、友人二人と出かけた。何百グラムという厚切りのステーキをペロリと平らげた。酷暑の夏の素敵なフィナーレだった。

 

富士を背に 火祭りの火 赤々と

 

秋簾 隣りの家に ひとつ揺れ

 

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大柴晏清君の作品 「たろうーくーん」 ( 童話)

ダウンロードをクリック、次に開くをクリック、文字が小さい時は上のバーで調整して下さい

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たろうーくーん
童話  大柴晏清作
たろうーくーん.pdf
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長田興吉君の 富士山 笠雲5題

大柴晏清君の作品 美しい声 ( 童話)

ダウンロードをクリック、次に開くをクリック、文字が小さい時は上のバーで調整して下さい

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美しい声.pdf
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雨宮秀君の サギソウの写真

今年はサギソウの栽培に失敗してしまい、あまり出来が良くない。
それでも、シノブの横に植えておいたのが咲いた。
この花には、いつ見ても造化の不思議というものを感じさせられる。
本当に可憐な花である。   2012.8.28
  雨宮 秀

田中邦司のゆり園 クリックすると拡大します

石井新造君の 爺の一人旅 ブログより

イグアスの滝のしぶき と パタゴニアの青い氷河

中村房江 さん  夏休み

写真と文とは関係ありません
写真と文とは関係ありません

今年も孫の夏休みの行事として熊本の姉を訪ねた。天草に宿をとり。海でのイルカウオッチングを楽しみ、蒼く澄んだ富岡海水浴場で泳いだ。老体には少しこたえたが、夕陽が海に沈む美しさは感動した。又、朝の海を見ながらの露天風呂にも大満足。大水害に見舞われた阿蘇にも行った。草千里は山崩れで地肌が露出し無残な様相だったが、孫と初めて馬に乗った。水害の為二日間山に入れず、山肌の回復には二十年かかるだろうと馬を引く青年が朴訥に言った。自然は怖いという言葉が印象的だった。あとは盆の行事、毎年のことながら、こうして夏休みは終わる。

   戦死せし父を語らぬ夫の夏

中村房江 さん  アナログ生活

 もともと文明の利器には弱い人間であったので我が生活はかなりアナログ的である。電話は今だに黒電話のダイヤル式、勿論留守電もファックスも無い。ましてやパソコンも携帯電話も持っていない。これで何十年か暮らしてきたのだから今さらという感がする。町なかの狭い庭だが大きな青桐が一本立っている。今は20mの幅で葉を繁らせて、緑陰を作ってくれている。季語で「青葉闇(あおばやみ)」という。この木を眺めてゆったり静かな日々を送っている。

 

  夏座敷 サルトル読みし 日もありぬ

久保島はる子 さん 東北被災地訪問記 続き ひばり苑

いわき市観光課が市の発展と活性化を目指して作った“ひばり苑(雲雀苑)”は塩屋岬灯台の北側に位置しています。美空ひばりさんのヒット曲「みだれ髪」の歌碑は今も健在で、その前に立つと歌が流れるしくみになっていました。「津波のあと音が出なくなっていたのですが8ヵ月後の11月突然歌が流れだした。」と苑の前のみやげ品店のご主人は言っていました。“「ひばり苑」と「みやげ品店」は何事もなかったように無傷だったが、両隣の右側は26人左側は200何人(?)と津波で亡くなってしまった。私もショックで何もする気が起きず11月になってやっとこの店を再開する気になった。”とおっしゃていました。私達が3時半ころ着いたときは誰もいなかったのですが あっと いう間に50名もの人でいっぱいになりました。静岡方面から大型の自家用車で来た男性7人組みやバスできた人達。亡くなられて20年近くになるのに衰えない人気を感じます。命日にはもっと大勢の人が京都から大型バスで来られるそうです。息子の和也さんも。

久保島はる子さん  東北被災地訪問記

山紫会の皆様こんにちは!

東北大震災の311日から14カ月が過ぎようとしています。私のまわりでは震災直後 元市会議員だつた人がその仲間12人と2台のショベルカーを持ってガレキ処理にあたった人。韓国人なのに阪神大震災の時は1週間、今回は4日間現地の人を助けたり、物資を持って行って配ったりした人がいます。又テレビ等で炊き出しをしている人、体育館で演奏活動をしている人を見て、羨ましいと感じていました。 私は何もしていない。( 金銭面の寄付はしたけれど。) 後ろめたい思いでした。現地の人と1人でも話がしたい。語りべの話が聞きたい。そんな思いでバスツアーに参加しようと思いました。ところが膝を痛めてしまい思うように歩けなくなってしまいました。時折、激痛も走り医院へ行くと関節腔に痛み止めの注射を打つてくれ、どうにか普通に歩ける様になりました。そんな事でバスツアーは無理となり娘の運転で歩く距離を最短にし今回宮城県行って来る事が出来ました。私の初期の目的である 1) ガレキの状況   2) 語りべの話   3) 現地の人の話   ( 3)は、お店の人に聞くことができたので) は、ほほ達成。 娘に感謝でした。

南三陸町の役場横にあった防災対策庁舎の3階建ての鉄骨の建物の屋上の更に3メートル上を津波は通って行ったという事です。この対策庁舎の2階では最後まで住民に避難を呼びかけていた2人の若い女性は亡くなってしまいました。( 当初一人だと思われていましたが 録音機 に残されていた声から二人である事が分かり訂正していました。) この話は有名な話なので皆さんもテレヒを見て知っていたらしく[ あーあの美談の女性 ーーーー]と言っていました。玄関前には今も亡くなられた方の卒塔婆や花が手向けられていました。

語りべのバスツアーは宿泊したホテル観洋の幹部の人がしてくれました。語りべのバスツアーなんて私たち二人だけだろうと思いながら申し込みのロビーに行くとなんと80名もの申込者がいて二台の大型バスで行くとの事。ビックリしました。このホテルは311日の地震や津波にびくともせず無傷でした。当時120名余の宿泊客への対応も立派で助けが来るまでの1週間自分たちはおにぎり1個だけの食事だつたけれど宿泊客の方々には先ず水の確保と今まで通りの食事をお出しする事が出来ほつとしました。とおっしやり、この震災でいろんな人にお世話になりましたが自衛隊の方々には本当にお世話になり感謝しているとおっしゃっていた事が印象的でした。

私も、娘と二人で現地を見たり聞いたりで当初の目的を達成し、地震・津波の恐ろしさを改めて、肌で感じ亡くなられた方のご冥福を祈り、被害に遭われた方々へのお見舞いの言葉を申し上げ帰路に着きました。

(写真は現地の様子を私が撮ったものです。美空ひばりの像は塩屋埼灯台の前にあり被害は有りませんでした。)

依田逸夫君ブログより 喧嘩辰 昨年東京山紫会関連

  昨年9月16日東京山紫会 関連写真 ギャラリーに掲載

昨日(平成23年9月16日)は高校の同期会『山紫会』があった。
二年おきに在京を中心にした昭和34年県立甲府一高卒業生が集まる。
同期は全部で520名ほどいたが、今回の参加者は60数名だった。
70~71歳の元高校生が一割強も集まる事が出来るのは素晴らしいことだ。
『山紫会』と言うネーミングも良い・・・34にかけているだけでなく、山の国甲斐と特産の葡萄の紫である。
今回の企画は『はとバス』貸切バスツアーで、先ずは『フーテンの寅さん』ゆかりの柴又帝釈天に参拝し、オープン間近のスカイツリーを見放題。
それから池袋のプラネタリューム『満天』にて宇宙のたびを体験し新宿に出て懇親会。12時~8時までの内容の濃いプログラムだった。
参加申込は6月にしたが、シアトルから帰っての時差ボケが治らない。
体調が今ひとつだったが、小千谷のY君も参加し、マドンナさんは池袋から、府中のY君、経堂のO君は懇親会には間に合うように来るといっていた。
特に心配なのは途中のトイレだったが、同年の男なら皆同じような悩みを抱えているに違いないと、腹をくくって参加する事にした。
はとバスは定時に出発し、先ずはパック入りのオムスビとボトルのお茶が配られた。
隣の席は高三の時に同じクラスだった横浜在住のT君だった。彼とは実に卒業以来の再会だった・・・40年振りである。よくしたもので、5分もしたらすぐに40年前にタイムスリップする事ができた。バスは高速に乗ったが渋滞にはまってしまった。でも、よき時代を共にした同期生との会話は時を忘れさせてくれた。


と、後ろの席にいたW君が、「山紫会の寅はヨダだろうな・・・」と言い出した・・・

一瞬、こいつ何を言い出すのやらと思った。確かに、厳つい顔で寅に似てなくもない。けれど、それだけの理由で寅さんになぞらえられるわけもないはずだ。
「何故」と聞いてみた。「いつも寅のように定めなくフラフラしているからな」
と答えた。そういえば我が人生、定めなく見果てぬ夢を追ってばかりだったナァ。
寅さんになぞらえられるなど光栄なことかもしれない。
出発から1時間半かかかって柴又に着いた。柴又での滞在時間は30分とのこと。先ずは駐車場のトイレに駆け込んだ。
それから人ごみの参道を歩いて帝釈天に行って帰るだけとなってしまったが、『男はつらいよ』の場面が蘇ってきた。49作の中で最もすきなのは第一作。
フーテンの寅のすべてが詰まっている。寅の見果てぬ恋の始まりである
第一作のマドンナ題経寺(帝釈天)のお嬢さん冬子である。
演ずるは当時新派の女優だった光本幸子。
人通りの絶えた帝釈天の参道を北島三郎歌う『喧嘩辰』の一節をほろ酔いの冬子が口ずさむ『殺したいたいほどほれてはいたが』寅は冬子をたしなめる。
そして、二人は寺にたどり着き、冬子が門へと入っていく。
寅は持ってあげていたハンドバッグを渡すと門からお嬢さんの手だけ伸びて寅の指と触れ合う。
そして、冬子が喧嘩辰の続きのフレーズを歌う。『指もふれずに別れたぜ』
実際には手は触れ合って寅はにぎられた指を見つめる。
そのときの寅の至福の表情が秀逸である。
寅は舞い上がって、参道を同じフレーズを大声を出しながら『とらや』へと帰っていく。実らぬ恋を思わせて、見るものの胸へと切なく迫ってくる。
女とは何と残酷なことをするものか・・・

もう一度、山紫会の寅も・・・
『殺したいほどほれてはいたが指も触れずに別れたぜ・・・とくら』

確かに私の青春は寅そのものではないか

 

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雨宮秀君  月下美人

7月6日の夜、ベランダで育てている月下美人が今年も咲きました。7時ごろ
から咲きだして、9時には開ききりました。
翌日はしぼんでいました。一夜限りの花の命です。
1年間、冬の寒い夜は家の中へ取り込むなどの世話をしなければ花を見ることはできません。

6月29日撮影 見頃は7月10日頃まで  画像をクリックすると拡大します。

河口湖 ハーブフェスタ    田中邦司の写真集より

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初夏花盛り    田中邦司の写真集より